ミッドウェー2 | cat day afternoon

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子供の成長とガダルカナル航空戦

離陸したVMF-221の24機は、方位310、高度12,000に多数の敵機との指示を受ける。数分後、針路を320に変更するよう指示が出る。
0605、戦闘機に続いて爆撃機、攻撃機と全機離陸が終わったイースタン島に、マッカーシー大尉とコリー少尉のF4Fが燃料切れ寸前で帰還する。直ちに着陸して燃料を補給し、再び離陸するよう指示を受け、両機はそのとおりにする。給油は完全には終了していなかったが、2機は迎撃に向かう。
同じころ、第1ディビジョンのヒューズ少尉がエンジンの不調を訴え、ミッドウェーに帰投する。
他に第3ディビジョンのウィリアムス・ブルックス少尉も、機体が不調で編隊についていくのに精一杯だった(※後で主脚が3分の1ほど降りた状態で固定されていたことが判明する)が、ブルックス少尉は離脱していない。
MAG-22の報告では、第1、第4、第5ディビジョンは敵機に向かい、第2、第3ディビジョンは新たな敵に備えて基地から10マイル地点で旋回して待機するよう指示を出したとなっているが、パイロットたちの報告ではこの指示について触れているのは、第2ディビジョンのフィリップ・ホワイト大尉が、「高度12,000フィートまで上昇して、2、3分旋回した」と報告しているのみである。第3ディビジョンの指揮官、アーミステッド大尉の報告にはない。
第5ディビジョンのマリオン・カール大尉とクレイトン・キャンフィールド少尉は、離陸後にキャリー大尉の列機のスワンスバーガー少尉がいないことに気付き、キャリー大尉と3機編隊を形成する。

カール大尉は1915年11月1日にオレゴン州で生まれ、オレゴン州立大学を卒業後に海兵隊に入隊し、1939年12月にウィングマークを取得する。
いわゆる搭乗員歴はこの日までで2年5か月だが、飛行時間は1406.3時間とかなり長い。

キャンフィールド少尉は1917年12月30日生まれでこの時点で24歳。コロラド州出身でカリフォルニア州育ち。大学に通いながら民間パイロットのライセンスを取得し、1941年6月に海軍入隊。1942年3月に海兵隊少尉に任命される。5月末の時点での飛行時間は188.6時間。

VMF-221は
、第1ディビジョンのヒューズ少尉以外の5機と、第4ディビジョンの2機の7機が編隊を組み、第5ディビジョンは3機、第2ディビジョンは6機、第3ディビジョンは6機に加えて、スワンスバーガー少尉のF4Fが
いつの間にか合流して7機編隊の、4つの編隊を形成し、遅れてマッカーシー大尉とコリー少尉の2機が燃料を補給してミッドウェーを離陸しようとしていた。

そのころ、日本の攻撃隊はミッドウェーに近づきつつあった。蒼龍戦闘詳報では、0315(0615)に「ミッドウェーを認む」となっている。本来ならば制空隊の零戦が先頭にいるはずであるが、この直前になんらかの理由で編隊を乱し、攻撃隊が先に出てしまい、艦攻隊、艦爆隊、艦戦隊の順番になってしまっていたとの複数の証言がある。
飛龍戦闘詳報によれば、敵付近の天候は晴、雲量2から3、雲高500、視界は60キロメートル。0317(0617)友永大尉は「突撃準備隊形作れ」を下令する。

第5ディビジョンのカール大尉の報告によれば、方位320を高度14,000フィートで飛び続け、ミッドウェーから約30マイル離れたとき、キャリー大尉は右旋回し、カール大尉は数百ヤード遅れた。
旋回を終えたとき、キャリー大尉は12,000フィートにいくつかのⅤ字編隊を組んだ19機の爆撃機と、その上空に約10機の「ゼロ」戦闘機を発見した。キャリー大尉は「タリホー、爆撃機の大規模な編隊」と無線で報告すると、旋回降下に移りながら、「敵は戦闘機を伴う」と続けた。第3ディビジョンのアーミステッド大尉も上昇を続けながらこの無線を受信している。
第5ディビジョンのF4F3機は、日本軍攻撃隊の2,000フィート上空から降下しながら、急速に接近していた。




VMF-221のブリュースターF2A-3バッファロー。
1941年10月のサンディエゴでキャリー少尉(当時)が撮影。ハンク・エリス少尉が操縦。納入番号01552。ミッドウェーではヒューズ少尉が搭乗。国籍マーク中央の赤丸は1942年5月に廃止される。