ミッドウェー | cat day afternoon

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子供の成長とガダルカナル航空戦

1942年(昭和17年)6月4日。ミッドウェーに配備されていたMAG-22(※海兵隊第22航空群)の起床時間はいつもどおり日の出より2時間も早い0300だった。こんな時間にも関わらず、VMF-221(※海兵隊第221戦闘飛行隊)の第5ディビジョン指揮官、ジョン・キャリー大尉は、「未明から緊張していた」と報告書で証言している。前日の6月3日に、ミッドウェー攻略部隊と見られる輸送船を含む日本艦隊が発見されている状況では当然であろう。

日の出前の0400、11機のPBY-5Aと14機のB-17Eがミッドウェーを発進。PBYは日本機動部隊の哨戒、B-17は前日発見した攻略部隊への爆撃任務である。また、数機の戦闘機が上空警戒とパトロールに離陸した。

この頃の米軍と日本軍では違う時間を使っていた。米軍では現地時間を採用し、日本軍では東京時間を使っていた。ミッドウェーと日本の時差は21時間。ミッドウェーの4日0600は、日本時間の5日0300になる。(※現在のミッドウェーでは1時間早いタイムゾーンを使っているようで、日本との時差は20時間になっている。)当ブログでは基本的に米軍と同じ現地時間で表記し、日本軍報告書の時間には常に括弧書きで現地時間を表記する。

前日の日没後に米軍哨戒圏内に突入し、夜の間にミッドウェーから方位210、距離200浬まで接近した南雲中将の指揮する第一機動部隊は、日の出のおよそ30分前の5日0128(4日0428)に攻撃隊の発艦を開始した。赤城、加賀、蒼龍、飛龍の4隻の空母から各9機の零戦、赤城と加賀から18機ずつの九九式艦爆、蒼龍と飛龍から18機ずつの九七式艦攻の合計108機が発艦。わずか10分ほどで全機発艦すると、0145(0445)には編隊を組み終え、上空を発進し、針路を130に向けた。
攻撃隊指揮官は飛龍艦攻隊の友永丈市大尉。飛龍艦攻隊の赤松作特務少尉機がエンジン不調で途中で引き返し、編隊は107機となったが、残りの機は一路ミッドウェーに向かった。(※なお、赤松特務少尉はこの日のヨークタウン攻撃の際には友永大尉機に偵察員として乗り込み、戦死している。)
艦攻隊は80番陸用爆弾と、加賀艦攻隊の一部は80番通常爆弾を、艦爆隊は25番陸用爆弾を装備していた。
目標はミッドウェー基地攻撃。
自艦付近の天候は半晴。雲量6から7、雲高700から1,000、視界30キロメートルと飛龍戦闘詳報に記されている。

0500、
上空警戒とパトロールに出ていた戦闘機は、第5ディビジョンのフランシス・マッカーシー大尉とロイ・コリー少尉以外は全て基地に戻った、とMAG-22の報告ではなっているが、実際にはパトロールに出ていた戦闘機はそもそもこの2機だけだったようだ。
0515、VMF-221の当直だった第3ディビジョンの6機のF2A-3は、イースタン島の第2飛行場の端まで移動し、そこで待機した。

ミッドウェーは、正確にはミッドウェー諸島であり、直径10キロメートルほどの環礁の中に、サンド島と、その東のイースタン島の2つの島があり、両方の島ともほぼ平坦である。東日本大震災の際に発生した津波で、イースタン島などは島の大部分が一時水没した。海鳥が大量に生息している。
サンド島には水上機基地、イースタン島には陸上機基地がある。イースタン島にはこの時点で3本の滑走路があった。


 
1941年11月のミッドウェーを東側から見る。手前がイースタン島。

0525、PBYからミッドウェーに敵空母発見の報告が入る。MAG-22の報告では「すべての飛行機に搭乗員が乗り込み、エンジンが始動されるが、レーダー
※サンド島の西端に配置されたSCR-270長距離早期警戒レーダー)は何の反応も示さなかったため、いったんエンジンを切るよう指示が出る。」となっているが、パイロットたちの報告には該当する記述はない。
0545、VMF-221の当直士官、ジョン・ムッセルマン少尉が、待機中の第3ディビジョンに、飛行隊のトラックまで移動して、エンジンを切らずに離陸の指示を待つよう伝えたと、第3ディビジョンのチャールズ・クンツ少尉は証言している。

ここでVMF-221のこの時点での編成を見てみよう。


第1ディビジョン(F2A-3) 6機

MF-1 フロイド・パークス少佐

MF-2 ユージーン・マドレ少尉

MF-3 ジョン・アルヴォード大尉

MF-4 ジョン・バトラー少尉

MF-5 デヴィッド・ピンカートン少尉

MF-6 チャールズ・ヒューズ少尉


第2ディビジョン(F2A-3) 6機

MF-7 ダニエル・ヘネシー大尉

MF-8 エルウッド・リンジー少尉

MF-9 ハーバート・メリル大尉

MF-10 トーマス・ベンソン少尉

MF-11 フィリップ・ホワイト大尉

MF-12 ジョン・ルーカス少尉


第3ディビジョン(F2A-3) 6機

MF-13 カーク・アーミステッド大尉

MF-14 ウィリアム・サンドバル少尉

MF-15 ウィリアム・ハンバード大尉

MF-16 ウィリアムス・ブルックス少尉

MF-17 チャールズ・クンツ少尉

MF-18 マーティン・マハナー少尉


第4ディビジョン(F2A-3) 2機

MF-19 ロバート・カーティン大尉

MF-20 ダレル・アーウィン少尉


第5ディビジョン(F4F-3) 7機

22 ジョン・キャリー大尉

23 ウォルター・スワンスバーガー少尉

24 マリオン・カール大尉

25 クレイトン・キャンフィールド少尉

26 フランシス・マッカーシー大尉

27 ロイ・コリー少尉

28 ハイド・フィリップス少尉

と20機のF2A-3と7機のF4F-3、10人の大尉と16人の少尉をフロイド”レッド”パークス少佐が
指揮していた。中尉は1人もいない。

第1から第4ディビジョンがブリュースターF2A-3バッファローなのに対し、キャリー大尉の第5ディビジョンは5月26日に受領したばかりのグラマンF4F-3ワイルドキャットを使っていた。
パークス少佐も5月18日にジェームズ・ニーフス大尉に代わって指揮官に着任したばかりだった。また、第2ディビジョン指揮官で、飛行隊副官のダニエル・ヘネシー大尉も5月26日に着任したばかりである。

VMF-221は、1941年7月に開隊。パールハーバー攻撃の時にはサンディエゴにいたが、すぐにハワイに移動し、サラトガに搭載されて
ウェーク島救出に向かったが、間に合わずに引き返し、クリスマスにミッドウェーに降ろされ、防衛任務に就いた。その時点では22人のパイロットがいたが、大半が搭乗員歴2年以上のベテランで、練度は非常に高かった。しかしこの5か月間で、少佐、大尉クラスの6人全員と、中尉5人のうち3人、少尉2人、准士官1人がVMF-221を去り、穴はサンディエゴの飛行学校からやってきたパイロットで埋められた。残っていた中尉1人と、少尉8人のうち7人を、大尉に昇進させてセクション(※2機編隊)指揮官クラスとしていた。

0555、レーダーが方位310、距離93に多数の航空機を発見。空襲警報が鳴る。

ミッドウェー防衛の指揮官、シリル・シマード海軍大佐は、爆撃機、攻撃機は全機日本機動部隊攻撃、戦闘機は全機ミッドウェー防空という判断を下した。
B-26隊(※陸軍第69爆撃飛行隊と第18偵察飛行隊の混成)のコリンズ大尉とTBF隊(※海軍第8雷撃飛行隊から分派)のフィーバーリング大尉に、方位320、距離180マイルを針路135、速度25で進む敵空母を攻撃するよう命令が下される。
VMSB-241(※海兵隊第241偵察爆撃飛行隊)のノリス少佐もこのメッセージを受け取る。また、攻略部隊爆撃に出撃していたB-17にも、目標を機動部隊に変更の指示が無線で伝えられる。

MAG-22の報告では「0556~0620 2機のSBD1(※VMSB-241の装備機は全てSBD-2ではないか?)と1機のF2A(エンジントラブル)(※第1ディビジョンのチャールズ・ヒューズ少尉機?)5機のSB2U-3(予備機)と1機のPBY5A(原因不明)以外の全機が離陸。(※他にハイド・フィリップス少尉のF4Fも離陸できていないようだが、触れられていない)となっている。実際には他にも多少の混乱があったようだ。

キャリー大尉の第5ディビジョンは、フィリップス少尉機がトラブルで使えず(※フィリップス少尉の報告では最初から予備だったとなっている)、マッカーシー大尉とコリー少尉が朝のパトロールからまだ戻っていないため、4機で離陸することになった。さらに、理由はよくわからないがウォルター・スワンスバーガー少尉のF4Fの離陸が遅れた(※キャリー大尉の報告では「少しの手違いがあった」と表現されているだけである)。

ノースカロライナ州出身のキャリー大尉はこの時点で26歳。飛行時間はこの日までで1808.4時間のベテランだったが、実戦経験はまだなかった。

この日の当直待機で、本来なら最初に離陸するであろう第3ディビジョンは、エンジンをかけっ放しだったため、アラームが聞こえず、離陸が遅れた。第3ディビジョン指揮官のカーク・アーミステッド大尉は「0555 空襲警報が鳴ったようだが、エンジン音で聞こえなかった。しかし警報が鳴ったと伝えられ、0602に離陸。(※装填している機銃弾は)2発の曳光弾と2発の徹甲弾、1発の通常弾と1発の焼夷弾で6発1ラウンドだった。」と報告している。