今回は加藤好洋さんと江戸幕府三代将軍徳川家光公のつながりについての考察です。(以降の歴史人物、敬省略)
加藤さんがかつて経営されていた横浜市の「星川どうぶつのおうち」
その真北に家光の霊廟、日光山輪王寺「大猷院」があります。(奥院に墓所)
仮に、この二つが子午線上に並ぶ位置関係が偶然でないとするなら、加藤さんと家光をつなぐものは何なのでしょうか?
また、なぜ初代将軍徳川家康ではなく三代将軍家光なのでしょうか?
家光は家康を強く崇拝し、日光東照宮の改築にも力を注ぎました。
家光は、死後も尊敬する祖父家康公にお仕えしたいという遺言を残したので、日光東照宮の近くに大猷院が造営されました。
徳川将軍のうち日光に墓所があるのは家康と家光の二人だけです。
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ところで、みなさんはミツマタ(三椏、三枝、三又)をご存知でしょうか?
下の写真がミツマタの花です。
実は、大猷院がある大黒山にはミツマタが群生しています。
ミツマタはどこの山にも生えているような植物ではなく、群生している場所は県内でも限られています。
また、枝が必ず三本に分かれるという特徴を持っていて、和紙や紙幣の原料としても使われてきました。
そして、このミツマタ
なんと加藤さんの誕生日である3月5日の誕生花なのです!
これも偶然とは思えません。
加藤さんと、「三」代将軍の家「光」、「ミツ」マタ。
きっと・ミツなつながりなのではないでしょうか?!
※ミツマタは2月15日、3月20日の誕生花も兼ねる。
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そして、今回は歴史的観点からも少し考察していきたいと思います。
江戸幕府二代将軍徳川秀忠は将軍職を家光に譲った後も政治の実権を握っていました。
寛永9年1月24日(1632年)、秀忠が死去し、
家光が政治の実権を握ってすぐの寛永9年5月22日、肥後熊本藩主の加藤忠広を改易しています。
加藤忠広は肥後熊本藩の初代藩主・加藤清正の三男で二代藩主です。
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熊本つながりですが
先月私が、目白台の肥後細川庭園に初めて行ったとき、そばを流れる神田川で翡翠(カワセミ)を見たのですが、家に帰って調べたら藤沢市の「市の鳥」であることがわかりました。
4月14日夕方、神田川で翡翠(カワセミ)を見たのですが、調べたら藤沢市の「市の鳥」でした🤩https://t.co/ZKYsuFcC2ohttps://t.co/ASfHbxvM2Fhttps://t.co/vS7eSyM1aC pic.twitter.com/eFHhptz1HW
— kaguya (@kaguya_358) April 15, 2024
藤沢市は加藤さんの活動拠点です。
また、4月28日の加藤さん講演会「共心」を主催されたkeyさんが熊本のご出身です。
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改易についてですが
忠広側に問題があったとしても肥後加藤家は52万石という大大名、改易によって職を失った家臣やその家族など多くの怨みが家光に向いたことは想像できます。
この家光と忠広の因縁の影響を加藤姓である加藤好洋さんがなんらかのかたちで受けていたとしても不思議ではありません。(あくまで想像なので、違っていたらすみません。)
忠広は改易後、出羽庄内藩(現在の山形県鶴岡市)にお預けとなりますが
その後、出羽国丸岡に一代限りの一万石を与えられ、余生を過ごします。
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ここで子午線の話に戻します。
実は、大猷院からさらに北に子午線を伸ばすと鶴岡市内を通り米子漁港に行きつきます。
この子午線は忠広が過ごした丸岡や墓所がある本住寺から西に離れているものの、同じ鶴岡市内を通るというのも何かつながりがあるのかもしれません。(今のところ、つながる理由がわかっていません。)
もし、忠広が米子漁港がある日本海側に足を運んだことがあるなら
日本海の荒波を眺め、海でつながる故郷、肥後熊本のことを思っていたのでしょうか…
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<子午線でのつながりのまとめ>
南から順に
神奈川県横浜市・星川どうぶつのおうち(跡)→栃木県佐野市・賀茂別雷神社宮司宅→栃木県日光市・輪王寺「大猷院」(徳川家光霊廟)→山形県鶴岡市米子漁港(忠広の墓所がある本住寺から西南西方向に20キロ程)
これら子午線上のつながりを、偶然と思うも良し、必然で意味のあるものと思うのも良し。
加藤好洋さんと家光のつながり、続きはまた今度ということで
今回の考察はこの辺で終えたいと思います。
加藤好洋さんのことを知らない方がこの記事を読んで興味を持っていただけたら
下記にYouTubeやホームページのリンクを貼ってはりますのでぜひご覧ください。
お読み頂きありがとうございました。
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