今、鬼怒川温泉から帰って来ました。皆様には大変ご迷惑おかけして申し訳ありませんでした。 | 2丁目食堂トレドへようこそ!

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1972年創業以来「家で待つ母の気持ち、妻の心」をモットーにやってまいりました。加工品など一切使用せず、一から全て手作りでお出ししております。

どうぞごゆっくりとおくつろぎ下さい。

 家内も自分も疲労困憊。見かねて息子が鬼怒川で頑張っている「あさや」の予約を取ってくれたのです。画像を見ると、ホテルの中は平然と整っていて、ガラス張りのエレベーターが、吹き抜けのホテル内を上下しています。食事はバイキングですが、食材にこだわりが感じられます。多くのコック、板前が腕をふるいます。鬼怒川温泉はコロナの影響をもろに受け、団体客場減少。他の要因もありますが、廃墟のホテル群、その多くはオーナーの夜逃げ、行方しれずのため、市が手をつけられない現状です。でも現実問題として、急な斜面に建てられた巨大なホテルの解体工事、困難だらけの工事だと思います。まして鬼怒川の水を汚してはいけません。という条件なら。

 6年前、鬼怒川のマンションで弟が急死いたしました。その時お世話になった蕎麦屋の方々や管理人に挨拶を兼ねて、徒歩で「あさや」に行きました。登りはきつかったです。腰の曲がりかけて、小さくなった家内、頑張りました。「あさや」は鬼怒川の上流、激流が岩に砕けて白い泡が立ち込める紆余曲折の風光明媚な場所にあるのです。昔はここがホテルの立地、一番の場所だったのです。休みながら、つくしを積みながら、川のそばに作られた木製の遊歩道を歩き、大きな岩の間を抜け。流れに手を濡らしたり、春の花を十分愛でました。「あさや」の周りの店舗は皆廃業。川の向こう側の「第一ホテル」「鬼怒川観光ホテル」「カッパ風呂で有名だったホテル」には明かりが灯っていません。ホテルに到着。着物姿の若い女性たちのお出迎えです。フロントも全てに従業員もみんな笑顔です。ここに来るまで、多くのアパート、マンションに人の影がありませんでした。大型ホテルの消滅により、従業員が職業を失ったのかもしれません。こんな中、がんばている「あさや」の経営陣を尊敬します。まるで「プロジェクトX」です。

 江戸時代後期は「麻や」でした。そうですこの地方は麻の生産地でその元締めだったのです。鬼怒川の上流の川岸に温泉が湧きます。当初庶民は入れませんでした。麻やが代官所から権利を取得します。河原湯を作り、運送業者の馬子たちにも開放します。中継地として宿屋を作ります。

 明治時代日本を訪れた英国の女性探検家イザベル・ハルトの「日本奥地紀行」に藤原には農家が46軒。宿屋が一軒。一階には馬小屋、二階が部屋だった。とあります。汗にまみれた馬子たち、空腹の馬たち、それに娘とたくましい男たちの縁結び。麻やの祖先たちがこの地域の生き残り、発展に貢献したかもしれません。そんなど根性が垣間見える気がしました。(冗談じゃない!!鬼怒川はまだ終わってない。「あさや」がある。)

 温泉好きな与謝野晶子が鬼怒川で詠んだ歌があります。

「方計す 崩れし塔の白き跡なるやと寄れば 鬼怒の川原湯」

「浴む人 渓に衣解く 山かぜに一本の木の葉を捨つること」 

 川原湯は荒れる鬼怒川の前では無力でした。すぐ流されたのでしょう。そして晶子さん、鬼怒川に誰といったのでしょう?気になります。