吉原では一夜千両以上の金が動くといわれている。遊女への代金を揚代という。現在の米価格十キロ5千円を基準に、一両を45千円と換算すると揚代が8万円であった。そのほかに幇間や遣手などへチップ、さらに総花といって使用人全員から茶屋、船宿にまでチップを出す大盤振る舞い。その上、台の物と呼ばれる酒や料理は、市井の二倍はするので概算総額40万は必要であった。

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郭のたとえに「素見千人、客百人、間夫十人、地色一人」というのがある。遊女を見てまわるだけの素見(ひやかし)客が千人、そのうち客になるのが百人、馴染みとなって「あんさんだけでありんす」などと言われてうつつを抜かす間夫が十人、遊女にとって本当に好いている地色は一人だけという意味である。

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人は集まるが客となるのは一握り、大金が自由になる人間はいつの時代にもそういるものではない。そこで遊女のほうでも客の確保にしのぎを削るのである。郭言葉、吉原言葉と呼ばれた「ありんす」とは、「あります」の意味であり、吉原遊郭での標準語とされていた。地方から出てきた娘たちの方言のままでは興ざめしかねない。そこで「ありんす言葉」を使うことで元から居た娘のように振舞うことができたのである。

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夜の帳が下りると、廓は昼のように遊客の波で賑わった。「世の中は暮れて廓は昼になり」遊女たちは、通りから見えるところに見世を張った。格子の中にひしめく脂粉の匂い漂う散茶女郎が客を誘う。張見世から男を見つけると嬌声をあげて袖を引く端女郎もいる。

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そこへ買いもせず、ひとまわり見るだけの客がいる。それを「素見ひやかし」と呼んだ。この地に住んでいた紙漉き職人たちが、和紙の原料である楮や三椏を煮詰めたあと冷やす。その間に遊女たちの顔を拝んでくるのである。廓ではそれを「ひやかし」と言って蔑んでいた。この廓言葉は、のちに廓から出て一般の商店の言葉に変わってしまった。

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明和5年(1767)に刊行された「吉原大全」酔郷散人著によれば、紀伊国屋文左衛門は、金に物を言わせただけでなく粋な吉原通でもあった。「心さっぱりして嫌味なく、明るくお洒落で洗練され、人品高く風流で功あせらず、たっぷり用意したお金を惜しみなく遊び使い切る。」このような人物が最高の通人であるという。

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そのような事が郭できなければ、野暮と呼ばれても仕方のないことであった。同じく吉原細見という当時のガイドブックによると、明暦2年(1656)元吉原の遊女2,552名が、弘化3年(1846)には、新吉原7,197名に増加している。これは人口も増え続け、特権階級の大名や旗本から一般庶民の旦那衆のほうが財を蓄え吉原の上客となったことを物語っている。