明治に入ると廓の遊客も江戸のお大尽に代わって、こんどは成り上がりの大官や、官員によって賑わう吉原が現れた。しかも新しい娼妓は、出戻りの貧しい百姓娘ばかりではなかった。旧幕臣、旗本の食い詰めた士族の娘が多く売られてきた。

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しかし、その吉原には、かっての江戸初期から中期における闊達な廓の色は微塵もなく、ただの「女郎屋」と化してしまった。苦界のからくりは次第に衰えながらも昭和まで続いていった。

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慶応4年(1868)陸軍奉行によって公許化された「根津遊郭」は、遊女屋三十軒で明治2年には128名の遊女を抱えていたが、文教地域であることの反対からその後、深川弁天町の埋め立て地一帯の五万坪、ゆうに吉原の倍の広大な敷地に郭の町割りを設け移転した。これを「洲崎遊郭」と呼んだ。

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明治5年(1872102日、ペルーの帆船マリア・ルーズ号事件を契機に発せられた法律「娼妓開放令」を「きりほどき」と俗に呼んでいた。修理の為、横浜港に入港したマリア号において賃金労働契約で乗船した二人の清国人苦力が、実は奴隷扱いされていたと言う事件である。

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日本政府は、虐待私刑事件として船長を糾弾したのだが、日本の遊女は、奴隷制度でないかという反撃を受け、急遽、近々公娼解散を準備中であるという声明を出し、これが娼妓解散令のきっかけとなった。実際は人間としての権利を失った存在であり、牛馬と同じと見なされての開放であった為、「牛馬きりほどき」と呼ばれていた。ちなみにこの法令では、遊郭は禁止されていないのである。

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明治22年(1889)から明治24年にかけてキリスト教の立場、即ち人道的な立場から売春を罪悪とする思想を元に起こった運動。これにより群馬県を初めとする遊郭が廃止の方向に向った。

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明治36年(1903)写真を写すと魂を奪われるという迷信が薄れだした頃、吉原角町の全盛楼で小照という娼妓の写真を額にして店頭に掲げた。これがきっかけで他の貸座敷も「写真見世」で呼び込みを行なうようになった。一見の客には好都合だが、ひやかしには、楽しみがうすれ迷惑だったに違いない。