昭和20年(1945)特殊慰安施設教会(R・A・A)を設置した。敗戦直後に日本政府は、進駐軍の米兵士から、これまで日本軍の兵士が侵略地で行なったようにとうぜん婦女子の略奪強姦が行われるであろうと想定した。そこで一般婦女子を守るために政府が設立したのが、米兵のための職業性的慰安施設に飲食、娯楽場など含めサービスをする機関である。この提供場所が吉原遊郭であったが、昭和21年、性病の蔓延と協会内部紛争と役所のずさんな経営で無残な終焉廃止となった。

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昭和21年(1946220日、GHQの指令で名目上、公娼制度は廃止されたが、特殊飲食店として地域を限って売春が許容された。その指定飲食街の地帯を警察が赤く囲んだことから「赤線」と呼ばれた。当初は娼妓が転向するまでの暫定措置であった。ところが指定外の場所で飲食の営業許可のみで売春をおこなう非合法な私娼街を警察が赤線と区別するために地図上に青線で囲んだとろを「青線」と呼んでいた。

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昭和26年(195118歳未満の淫行に対する処罰が和歌山県で制定されたのを皮切りに全国で制定された。青少年を取り巻く環境の整備と共に、青少年の福祉を阻害する恐れのある行為を規制し、もって青少年の健全な育成を計るのが条例の目的である。

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昭和31年(1956521日に成立。昭和3341日に施行された。「売春防止法」全文22条、附則7条からなる。売春婦の保護厚生を図る目的で作られ、売春を業とする、また斡旋、場所の提供、売春行為を助けるような行為に対して処罰が盛り込まれた。

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しかし、売買春そのものを禁じた法律ではなく、あくまで売買春を成立させる周辺に多くの罰則を設け、売買春をなくしていく事を目指した法律である。結局のところ、売買春をした本人が罰則されることはないのである。

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吉原遊郭の組合は、施行前の昭和33228日をもって遊郭を閉じることを決定した。元和4年(161812月、庄司甚右衛門が開いた元吉原から数えて340年間続いた吉原遊郭は静かにその幕を下ろしたのである。

戦前の日本では売春は公然と認められている。よって、戦地でも吉原遊郭などの売春業者が軍隊を相手に商売をしていただけではないのか。そのように思っていた方々も多いことだろう。しかし、その実態は軍隊の暗部である慰安所のことは、退役軍人たちに固く口止めし、何人もたりとも触れてはならない文字どおりタブー(恥部)であった。

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とうぜん娼妓取締規制の強制や虐待をともなう売春は法律違反であった。軍部はこれらの規則を無視し、慰安婦の登録もなく、本人の自由意志の確認などされた形跡すらないのが実態である。国内法では、完全に違法である慰安所が作られたのは、法律すら上回る軍の強大な力によるものである。占領地では、軍の司令官がすべての権限をもっており、国内法など無視するなどあたりまえの事であった。

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 戦地での軍人の強姦事件が後を立たず、このままでは帝国皇軍の威信低下が危ぶまれた。これを防ぐため慰安所は必要不可欠であった。設置のしかたは業者が部隊に取り入ったりする場合もあるし、軍が設営して慰安婦を徴募した場合もある。部隊長名で利用規定や料金を定め、軍医や憲兵を配置し実効支配しているわけであるから、軍の一部であったことに間違いはない。慰安所の普及は隅々にまで行き渡り、すべての部隊に慰安所があったと言われている。

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 昭和13年(1938)内務省は軍人相手の売春婦の渡航に関し通達を出した。この憂慮される事態は、1、帝国の威信を傷つけ行軍の名誉を損なう。2、銃後の国民とくに出征兵士の遺家族に悪い影響を与える。3、婦女売買に関する国際条約に反する。と警告を出したのである。

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これらの理由で戦地では本格的に植民地出身者に切り替え、現実には朝鮮人・中国人の未成年者にまで強制の事実があり紛れもなく国際法違反であった。強制で異国の戦地へ赴いた従軍慰安婦に起こり得たであろう家畜にも満たない劣悪悲惨な状況を、ここで記すにはあまりにも忍びない。今日にまでその痕跡を留めている従軍慰安婦の数は、国内外含め20万人に達したといわれている

明治に入ると廓の遊客も江戸のお大尽に代わって、こんどは成り上がりの大官や、官員によって賑わう吉原が現れた。しかも新しい娼妓は、出戻りの貧しい百姓娘ばかりではなかった。旧幕臣、旗本の食い詰めた士族の娘が多く売られてきた。

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しかし、その吉原には、かっての江戸初期から中期における闊達な廓の色は微塵もなく、ただの「女郎屋」と化してしまった。苦界のからくりは次第に衰えながらも昭和まで続いていった。

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慶応4年(1868)陸軍奉行によって公許化された「根津遊郭」は、遊女屋三十軒で明治2年には128名の遊女を抱えていたが、文教地域であることの反対からその後、深川弁天町の埋め立て地一帯の五万坪、ゆうに吉原の倍の広大な敷地に郭の町割りを設け移転した。これを「洲崎遊郭」と呼んだ。

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明治5年(1872102日、ペルーの帆船マリア・ルーズ号事件を契機に発せられた法律「娼妓開放令」を「きりほどき」と俗に呼んでいた。修理の為、横浜港に入港したマリア号において賃金労働契約で乗船した二人の清国人苦力が、実は奴隷扱いされていたと言う事件である。

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日本政府は、虐待私刑事件として船長を糾弾したのだが、日本の遊女は、奴隷制度でないかという反撃を受け、急遽、近々公娼解散を準備中であるという声明を出し、これが娼妓解散令のきっかけとなった。実際は人間としての権利を失った存在であり、牛馬と同じと見なされての開放であった為、「牛馬きりほどき」と呼ばれていた。ちなみにこの法令では、遊郭は禁止されていないのである。

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明治22年(1889)から明治24年にかけてキリスト教の立場、即ち人道的な立場から売春を罪悪とする思想を元に起こった運動。これにより群馬県を初めとする遊郭が廃止の方向に向った。

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明治36年(1903)写真を写すと魂を奪われるという迷信が薄れだした頃、吉原角町の全盛楼で小照という娼妓の写真を額にして店頭に掲げた。これがきっかけで他の貸座敷も「写真見世」で呼び込みを行なうようになった。一見の客には好都合だが、ひやかしには、楽しみがうすれ迷惑だったに違いない。

花魁道中とは、遊女が盛装して置屋から、揚場や仲町の茶屋へ行き帰り、練り歩いて行ったことを道中と呼んでいた。それがのちに、ひとびとに美しい姿を見せる年中行事となっていった。吉原では正月と八朔におこなわれた。その行列の模様は、鳶の者二人金棒ひき、台付提灯、花魁、振新二人、禿二人、番新、押へ五・六人の順序で、太夫は絢爛たる内掛け姿で、黒塗りの高い下駄をはいて、外八文字や内八文字などの独自な歩き方をしたと言われている。

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台東区三ノ輪に浄閑寺がある。俗に「投げ込み寺」と呼ばれている。廓に身を沈めた遊女の「生まれては苦界 死しては浄閑寺」と言われた執着駅であった。買われて来たか、拐わかされて来たか、いずれにしても、悲惨な身の上がその殆んどであった。

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新吉原三百年の永きにおよび、ある者は病気で、折檻で、火災で、また、自らの命を絶ってしまった夥しい数の遊女が死んでいった。その、引き取り手のない二万五千の眠っている寺である。寛政5年(1793)に「新吉原総霊塔」が建てられている。今でも絶えることのない香の煙が、そのあわれを訴えている。

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貧しさゆえに、たった一枚の証文で自由を奪われ、苦界に身を沈めた娘が大多数であった。一度身を沈めると命の保障すらない過酷な世界である。俗に、苦界十年といって18歳で住み込み、十年で「年明け」といい、27歳で自由の身になる筈であったが、借金次第で骨になるまで働かされていた。

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江戸では、他の私娼窟を「岡場所」と呼んでいた。岡とは、岡目八目や岡惚れなど、局外の意で新吉原以外の非公認の遊所を意味する。したがって、遊行費も安く形式にとらわれず、一般の町人を中心に人気があった。また、岡場所はその土地それぞれに特徴をもつ。

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谷中のいろは茶屋や高輪の七軒には女犯厳禁のはずの坊主客が多い。根津は大工を始めとする職人客を喜ぶ。深川は木場の番頭や酒米問屋の手代などが常客であった。非公認売女は、いつの時代も旅籠、風呂屋、水・料理茶屋などを基盤として生まれた。流行ると当局の手が入るなどの消長を繰り返し、生きながらえてきた。

 吉原では一夜千両以上の金が動くといわれている。遊女への代金を揚代という。現在の米価格十キロ5千円を基準に、一両を45千円と換算すると揚代が8万円であった。そのほかに幇間や遣手などへチップ、さらに総花といって使用人全員から茶屋、船宿にまでチップを出す大盤振る舞い。その上、台の物と呼ばれる酒や料理は、市井の二倍はするので概算総額40万は必要であった。

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郭のたとえに「素見千人、客百人、間夫十人、地色一人」というのがある。遊女を見てまわるだけの素見(ひやかし)客が千人、そのうち客になるのが百人、馴染みとなって「あんさんだけでありんす」などと言われてうつつを抜かす間夫が十人、遊女にとって本当に好いている地色は一人だけという意味である。

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人は集まるが客となるのは一握り、大金が自由になる人間はいつの時代にもそういるものではない。そこで遊女のほうでも客の確保にしのぎを削るのである。郭言葉、吉原言葉と呼ばれた「ありんす」とは、「あります」の意味であり、吉原遊郭での標準語とされていた。地方から出てきた娘たちの方言のままでは興ざめしかねない。そこで「ありんす言葉」を使うことで元から居た娘のように振舞うことができたのである。

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夜の帳が下りると、廓は昼のように遊客の波で賑わった。「世の中は暮れて廓は昼になり」遊女たちは、通りから見えるところに見世を張った。格子の中にひしめく脂粉の匂い漂う散茶女郎が客を誘う。張見世から男を見つけると嬌声をあげて袖を引く端女郎もいる。

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そこへ買いもせず、ひとまわり見るだけの客がいる。それを「素見ひやかし」と呼んだ。この地に住んでいた紙漉き職人たちが、和紙の原料である楮や三椏を煮詰めたあと冷やす。その間に遊女たちの顔を拝んでくるのである。廓ではそれを「ひやかし」と言って蔑んでいた。この廓言葉は、のちに廓から出て一般の商店の言葉に変わってしまった。

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明和5年(1767)に刊行された「吉原大全」酔郷散人著によれば、紀伊国屋文左衛門は、金に物を言わせただけでなく粋な吉原通でもあった。「心さっぱりして嫌味なく、明るくお洒落で洗練され、人品高く風流で功あせらず、たっぷり用意したお金を惜しみなく遊び使い切る。」このような人物が最高の通人であるという。

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そのような事が郭できなければ、野暮と呼ばれても仕方のないことであった。同じく吉原細見という当時のガイドブックによると、明暦2年(1656)元吉原の遊女2,552名が、弘化3年(1846)には、新吉原7,197名に増加している。これは人口も増え続け、特権階級の大名や旗本から一般庶民の旦那衆のほうが財を蓄え吉原の上客となったことを物語っている。

新吉原への通い道となった日本堤とは、大川に流れ込んでいた山谷堀の川岸沿いに造られた土手のことである。「惚れて通えば千里も一里、長い田圃も一跨ぎ」とばかり廓に通う客は、馬道から日本堤の土手を馬に揺られていったものだが、土手馬禁止になってから駕篭や猪牙船で通った。吉原へ向かう道は、ほかにさしたる用のない道だけに、知人とすれ違っても知らぬ顔をするのが礼儀であった。

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登楼するには徒歩が主で、浅草の待乳山聖天から日本堤を八丁ほど行くと、左手に一本の柳の木が見えてくる。これを目印に左に折り、なだらかな三曲がりの坂を下ると冠木門に突き当たる。これが吉原に一つしかない出入口「大門」である。

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柳の木は、吉原帰りの客がここまで来て、必ず吉原を振り返ることから「見返り柳」と呼ばれている。三曲がりの坂は、これから登楼する客が衣紋を直したことから「衣紋坂」と呼ばれた。猪牙船の登楼では、墨田川の西岸土手の「首尾の松」には船上から手を合わせて、どうぞ今宵も首尾良くいきますようにと祈願していた。

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遊女たちも大名を相手にする高級遊女から、切見世の安女郎までを抱える日本一を誇る一大不夜城であった。この遊里の豪華絢爛の華やかなようすは、全国に広まり地方の藩士にとって江戸勤番を命ぜられるのを心待ちにし、定まるや否や独身・所帯持ち共に遊び金を携え赴いた。

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口の悪い江戸っ子から遊びの知らない野暮さを「浅黄裏」と軽蔑されながらも、吉原細見という情報誌を手に、一生に一度の極楽遊び故郷の土産話にと、悲喜こもごも繰り広げられた新吉原遊郭であった。江戸の巷には独身が溢れており、職人や奉公人は結婚すらあきらめ一生独身を通す者が多かった。金を貯めてあこがれの吉原へ、それも叶わぬ高根の花であった。

元吉原の現在地は、人形町二、三町目の西側水天宮通り、そこから浜町のほうへ250m行った東のへりが久松警察署、そのそばにある細く長い遊歩公園が浜町緑道で、ここの堀が浜町川であった。その堀川の水を引いて四方に堀割をめぐらせた。

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南側の掘割跡の通りには、末広神社があり、北側は久松小学校から富沢町のやや南までの一帯。入口は大門のみで四方が総掘で囲んだ。北西に位置して家々の全体がはすを向いていて、客がどの位置に寝ても北枕にならないよう配慮されていた。

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水天宮通りから浜町へ二本目の通りが「大門通り」と今でも呼ばれている。また、「思案橋」「わだくれ橋」「親父(庄司)橋」が架けられていて、今は堀も橋の面影もないが「親父橋交番」の名で残されておりその由来を知る人は少ない。寛永21年(16421118日庄司甚右衛門は没した。享年69歳であった。

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幕府の目論見どおり遊女屋を廓の中に押し込んで、江戸市中に娼婦がいなくなったかというと、そうではなかった。街道の出入り江戸四宿といわれた、板橋・千住・品川・新宿の飯盛り女のほか、安く評判の風呂屋の垢かき女「湯女」が繁昌して、明暦2年(1656)には二百軒を超え、これが吉原を脅かしたほどであった。

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そこで同年、業を煮やした奉行所は、これら風呂の営業を禁止し湯女を吉原送り、同時に吉原を浅草千束村へ移転するよう命じた。この移転を早めたのは、翌明暦三年、江戸市中の三分の二を焼き尽くした「振袖火事」であった。この火事で吉原も焼失し一斉に移転を始めた。

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ところで江戸の町人は、歌舞伎芝居と吉原を江戸の別の世界と見ていなかった。同じ娯楽であり隣合わせの桃源郷であった。これを幕府の為政者も共通した悪所と見なしていた。そして、この二大悪所を一般社会から隔離して閉じ込めようとした。それが廓であり芝居町であった。

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その隣合った浅草田圃の「吉原」であり「猿若町」なのである。旧廓の吉原を「元吉原」と言い、新遊郭である吉原は「新吉原」として明暦3年(1657814日開業した。江戸郊外ともいえる浅草寺裏手、日本堤の西側に一・五倍の移転地と昼夜営業が認められたのである。

幕府が遊廓用地に指定した場所は、当時では江戸市中のはずれにあたる日本橋葦屋町の二丁四方(約220m四方)を拝領した。葦草の生い茂る低湿地帯であった。現在の日本橋人形町の一角である。創始の廓には、四方を総堀として、出入りは一方口と成す事。との命があった。

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庄司甚右衛門は、人々を総動員して茅葦を刈り、土を運び平地にならして町割をつくり、次々と家を建て、初めて公然と遊女町の京町や江戸町ができてきた。江戸町一丁目、この町の遊女たちは柳町、元誓願寺から移ってきた江戸生まれの者達なので江戸町と名付けた。

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江戸二丁目には、神田の鎌倉河岸にあった遊女屋十四軒が引き移った。京町は麹町八丁目の遊女屋十四軒が移ったが、多くは京都六条からきた者達なので京町と名付けた。京町二丁目は、俗に新町と呼ばれ、新たに関西や奈良からはるばるやってきた者が多かった。そして、元和4年(161812月、この地を葭原と定めて開業となった。

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このほかに78年遅れて角町ができた。これは京橋の角町で遊女屋をしていた連中で庄司が願書を出すときに賛成しなかった者達である。さて一ヶ所で営業せよとの命であるが、庄司は、前のいきさつから吉原に店を出すことを承知しなかった。馬喰町雲光院住職の仲裁で和解し、水たまりのある空き地をもらって埋め立て、寛永3年(1626)の春に移転し全面開業となった。

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寛永3年(1626)葭原の字を縁起のよい「吉原」に改名する。吉原は、廓開設に携わった者たちの多くが上方からの移住者が多く、その上方遊郭の影響を色濃く受けて出来上がっている。ここでの遊びの特色は、昼間だけの営業で暮六つに大門は閉められる。

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遊びのすべてがルール化されていた。遊女と客の関係は廓内での「婚姻関係」と見なされ、他の遊女と遊ぶことは厳禁だった。他の廓と異なり、遊女が客を選ぶ権利があり、嫌な客には侍らない意気地と張りを持っていた。初期の客層は、大名、高級旗本、高級陪臣などが豪遊する特殊な閉鎖社会で、政商が幕府高官と取引する場としても使われ、庶民の遊行の場ではなかった。

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一生に一度でよいから、吉原の高級遊女と遊びたい願望を抱く庶民の男にとって、莫大な費用を要する高根の花であり、まさに夢の話であった。そして、吉原では、江戸の階級制度はまったく通用しなかった。通用するのは階級より金であった。

慶長9年(1604)江戸城の大普請が始まり、神田山などを切り崩し、江戸城東の低湿地の埋め立ても行なわれた。慶長10年(1605)柳町の遊女屋が元誓願寺町へ強制移転させられた。江戸城を改筑するため柳町の地を馬場用地にするためであった。

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こんな事がたびたび起きたのでは、たまらないと考えた柳町の遊女屋は、市中の遊女屋を一ヶ所に集めた遊廓の設置を幕府に陳情した。また何度となく陳情したが幕府から見向きもされなかった。

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慶長17年(1612)に、元誓願寺前で遊女屋を営む庄司甚右衛門が代表となり、町奉行米津勘兵衛を通じて、定住の遊廓設置を願い出たのだ。遊女屋をこのまま野放しにしておくと犯罪の温床になる。治安維持のためにも場所を決めて遊女屋を一ヶ所に集めてくだされば、「営業内容や女郎屋に売り飛ばされた娘や犯罪人などを吟味して必ず届け出ます」と3ヶ条にまとめて出した。

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受理されたものの、徳川の安定政権を作るため、多忙きわめた幕府からの返事は待たされた。時の家老本田佐渡守正信から「その願いを出した者、あの時の庄司甚右衛門ならば良かろう」との沙汰を得たのは、元和3年(16173月の事であった。幕府はいくつかの条件を付けて江戸初の遊廓、葭原の設置を許可し、庄司甚右衛門に遊廓の惣名主を任命した。

                                、

幕府の付けた条件「元和5ヶ條」とは、1、公認遊廓の保護、江戸市中にいっさいの私娼館を置かない。2、営業は日中のみとする。3、遊女の着物は、質素にすること。4、遊廓内の建物も質素にすること。5、身元の不確しかな者は奉行所へ差し出すこと。幕府が遊廓を公認すると、廓街は幕府へ冥加金を献上しなければならない。

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この頃の遊女はのちの娼妓のように、たんに売色のみを目的とするのではなく、活花、茶の湯、管弦、和歌の道にも通じた言わば遊びの相手をするもので、従って、太夫職の傾城三名ずつ幕府の許定所へ給仕として出仕する義務が課せられていたのである。

天正3年(15753月、小田原城主北条氏康の家臣、庄司又左衛門の息子として庄司甚内が小田原に生まれた。天正18年(159081日、徳川家康江戸城入府の時期に、小田原落城後に浪人となっていた庄司甚内が江戸へ出向いた。天下はなんとか平定したものの江戸には定まった傾城町がない、遊行の場を設ければ遊女や客も増え繁盛するであろう。甚内は武士を捨て遊女屋を思い立った。

                                、

 江戸の町の道を整備し、家来を収容する屋敷を建てるには多くの人足を必要とした。天正19年(1591)には銭湯ができ、それから間もなく江戸市中に遊女屋ができた。あちこちに数軒と点在していたが、十年ほど経つと麹町には京の六條から移ってきた者や、鎌倉河岸は駿河府中の弥勒町、柳町は江戸出身者など遊女屋が営業していた。

                                  、

慶長5年(1600)の秋、家康が関が原の戦いに出陣の際に甚内は、好機到来とばかり、街道沿いの鈴が森の八幡宮前に新しい茶店を構えて、町に分散していた遊女屋から美妓八人選び出し、赤い手拭いをかぶらせ赤い前掛けを締めさせて、家康の家来衆にお茶の接待をさせた。

                                、

これを駕籠の中から見た家康は、「あの袴をはいて、かしこまっている男は何者であるか……」とお側の者に尋ねた。お側の者が庄司甚内に近寄り「殿様がお前は何者か?」と尋ねて居られると問うた。時すかさず、

                                、

「私議、柳町に住む庄司甚内と申す遊女の長でございます。お殿様には先頃は奥州、また、このたび濃州へ御発向相成り、天下万民のために、かように御賢慮を尽させ給うこと、誠に有難き幸せ、私議、多年御城下に安住して御恩沢をこうむり、安楽に世渡り致して居ります賎しき者ではございますが、恐れながら御殿様の御冥加の為、且つこのたび御出陣の御武運の首途(かどで)を祝し奉る為に、ここにまかり出で、御供奉末々のお方様にお茶を差上げさせた次第でございます」

                                 、

と言上した。これを聞いた家康は――中々奇特な者よ――と感じ入った。そして翌年の秋、還りの時も、遊女達に同じ仕度をさせてお迎え申し上げたので、家康は殊のほか機嫌よく、甚内に褒美を賜わったという。

                                 、

 この店の入口に三尺の紺木綿の長のれんをかけ、その端に鈴をくくりつけ、客がのれんをくぐると鈴がちりんちりんと鳴る音を合図に客を出迎えるという、なかなか風情のある店で、近くに大井社の森があったので、いつしかその地が「鈴が森」と呼ばれるようになったという伝説もある。なお当時、久坂甚内という極悪人がいて、甚内は同名を嫌い、鈴が森での接待以後に甚右衛門と改名したと伝えられている。