【パソコン歴史浪漫】69 ●技術者が尊敬されない時代 | サンロフトの本とテレビの部屋

【パソコン歴史浪漫】69 ●技術者が尊敬されない時代

【パソコン歴史浪漫】69 ●技術者が尊敬されない時代


現代は、「物が輝かない時代」だ。どんなに高性能で高品質な製品をつくっても、誰も欲しがらない。「技術が評価されない時代」と言い換えてもいい。その結果、物や技術だけでなく、物を創り出す技術者まで軽んじられるようになった。


ジョブズを「デザイン重視」とする見方も危ういが、今回しきりに言われた「ユーザー目線」というのはさらに危うい。
確かに、パソコンで処理速度、画面の解像度と色数、サウンド性能等を争う時代は終わった。だが、それらをメーカーの理論と一刀両断し、ユーザーが求めるデザインや操作性が重要だとするのは、あまりにも安易である。SONYを否定することで高度成長期からバブルまでの日本のやり方を反省するという自虐史感、いや自虐現代史感だろう。


それを象徴するようなニュースが入ってきた。茂木健一郎、西和彦両氏がジョブズ追悼番組でケンカしたという。どちらが悪いか、大人気ないかは、どうでもいい。
MS-DOSとWindowsをボロクソに言った茂木氏に対し、西氏は、OSを作ったことが無いのにそんなことを言うな、と返した。それを言ったら、自分の専門以外のことは何も批判できなくなってしまう。まあ、それもどうでもいい。気になったのば別の理由だ。


もし、これが阪神の有名選手の追悼番組だったら、1阪神ファンが、同席した王、長嶋に向かって、巨人は采配もプレーも最悪で観れば観るほど嫌いになる、なんて言うだろうか?
大御所俳優の追悼番組に置き換えてもいい。その俳優のファンが、ライバル俳優をこき下ろすだろうか? そのライバル俳優の盟友に向かって!
現代はスポーツ選手や芸能人(重鎮以外のお笑い芸人除く)が尊敬される時代だから、そんなことがあったらブログは炎上、ワイドショーや週刊誌はしつこくバッシングを繰り返すだろう。


しかし、技術者は軽んじられている。顔が見えないからではない。東京タワー、新幹線、ウォークマン、ビデオ等の開発者は尊敬されている。
現代のPCは、工場で工員が組み立てているだけだと思われている。ソフトウェアも同じだ。プログラマはいつの間にかクリエーターと見なされなくなった。
1980年代前半まではパソコンでのプログラミングが一般的であり、ほとんどのユーザーがその難しさを知っていた。緻密な数学的思考と芸術的閃きの両方が不可欠な、高度で創造的な行為であった。BASICで簡単なプログラムをつくれても、ゲームソフトやワープロソフトをつくるのは次元が違う。


フジテレビ系CS(時々地上波)で「お台場APPSラボ」という番組がある。ロンブー淳とつるの剛士がそれぞれiPhone用アプリをプロデュースし、実際に販売するという企画だ。
iPhoneアプリマニアが、二人のアイデアの難易度や制作期間&コストについてコメントしているが、どれも的確なようである。しかし、二人が技術的困難さやコストに驚く場面が多かった。ソフトウェアは、実際よりずっと簡単
に出来ると思われているようだ。番組を観ていて、これは現代のごく一般的な感覚なのだろうと感じた。


ジョブズのように抽象的で大まかなコンセプトを打ち出したり、出来上がったものに細かくダメ出しする人がクリエーターであり、尊敬を集める。その下にソフトの具体的な仕様を決める人たちがいて、実際にコードを書くのは無名の下請け業者だというわけだ。プログラミングは、根気さえあれば誰でもできる単純作業にまで、イメージが凋落した。


市販ソフトが主流になった1983年頃には、大手ソフトハウス製のソフトが下請けの無名ソフトハウスによって作られることが既に珍しくなかった。しかし、技術が重視されなくなってきたのは最近の現象である。Microsoft Officeの日本語IMEが中国で作られていて、変換効率が著しく低下したことは記憶に新しい。
そういや、PCを使っていてプログラミング技術の凄さを感じたことは長らくない。コンピュータの知識の有無にもよるが、この感覚は多くのユーザーに共通しているのではないか?


茂木氏の言わんとすることは、Macintosh、MS-DOS、Windowsをかなり古くから知っている私には理解できる。しかし、その言動には狂信的マカーにありがちな歪められたパソコン史観が見て取れる。
技術論を抜きにしたMacintosh論、iPhone、iPad論が幅を利かせている中、技術者たるホリエモンならどうコメントするのだろう? ぜひとも聞いてみたいものだ。


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