麻田雅文「日ソ戦争」 | 世界文学登攀行

世界文学登攀行

世界文学の最高峰を登攀したいという気概でこんなブログのタイトルにしましたが、最近、本当の壁ものぼるようになりました。

日ソ戦争
――帝国日本最後の戦い

日ソ戦争とは聞きなれない名前である。
「1945年8月8日、ソ連は日本へ宣戦布告した。
(中略)
 1945年夏にソ連と繰り広げた戦争について、日本ではいまだに正式な名称すらない。ロシアではソ日戦争といわれる。本書では『日ソ戦争』としたい」(「はじめに」Pⅰ)

僕の歴史認識では、日本が無条件降伏したのは、ソ連の参戦が直接の契機である。
歴史を現代から巻き戻してみている僕には、当時の日本は、ドイツが降伏した後も世界との戦争を続行し、広島と長崎の原爆投下によっても降伏を即断できず、信ずるに足らぬソ連の参戦をもってやっと降伏した愚かな国。自虐史観とは言わぬまでも、日本は負けるべくして負けた、という感想しか抱いていなかった。
なぜ、日本は、ソ連に期待して外交を続けたのか、そういう視点が完全に欠落していた。

なぜ、日本が無謀な戦争を続行し、ソ連の仲介を期待して外交交渉を続けたのか。
1つ目の理由は「無条件降伏への強い拒否感である」(P25)
「勝者に政治体制の転換を迫られても敗者は応じざるをえなくなるからだ。日本の指導者たちは、『万世一系』の天皇が永遠に日本の統治権を保持する『国体』を変更されることを恐れた」(P26)
2つ目の理由は「ソ連の仲介があれば条件付きの講和ができると期待したためだ」(P27)
「ソ連に中立を維持させることから、代償を用意してソ連に戦争終結のための仲介を依頼するという、より踏み込んだ外交へ転換が決まった」(P29)

そして、日本の首脳部は、ソ連と和平仲介の交渉を行った。
スターリンはそれに対し明確な回答を与えなかった。
そして、8月8日午後11時「待ちに待ったソ連の回答は、宣戦布告だった」(P40)
日ソ戦争はそういう戦争である。

開戦からの本書の構成は、冷静に日ソ戦争の推移をたどる。
そこで見えてくるのは、用意周到に軍事的な準備をすすめ、戦争末期になってようやく参戦し、複雑な外交関係の中で日本降伏後も満州を蹂躙し、南樺太と千島列島への侵略をすすめ、貪欲に領土拡張を行ったスターリンの戦略的な行動である。
ソ連は、北海道の北半分の占領や、東京の共同統治も目指し、アメリカに要求した。
こういう本を読むときにそういう感情が邪魔になると思っているが、ソ連に対して敵愾心がわいてくるのを禁じえなかった。

ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した後も、戦争を続行するソ連に戸惑いながら、日本軍は勇敢に戦った。
ある地方では激戦であった。日本軍も多くの死傷者が出たが、ソ連軍も壮絶な反撃を受けた。
戦争は悲惨である。
でも、負け戦というのはさらに悲惨である。
ソ連の捕虜となった日本人は、シベリアに抑留され、多くの悲劇を生み、「満州に残された日本人には過酷な生活が待っていた」(P150)ことを思えば様々思うことがある。
日本軍の頑強な抵抗がなければ、戦後日本はどのように取り扱われただろうか。
当時の人々は当時に生きている。
日本は愚かな為政者によって無謀な戦争に突入し、負けるべくして負けた、などと未来人の僕らは無責任に軽々な総括をしてはいけないのかもしれない。

本書は中公新書らしく、冷静な筆致で事実を淡々と述べる。
しかし、日本人として、感情的になりながら読み進めるのを禁じえなかった。

「ロシアでは、日ソ戦争の記憶は風化するどころか、社会に刻む動きが加速している。9月3日の『大戦終結の日』は、2023年6月に『軍国主義日本に対する勝利と第二次大戦終結の日』と名前を改めた」(P262)
日本人はこの日ソ戦争とどのように向き合うべきなのだろうか。
日本は世界を相手に戦争を行い、そして敗戦の焼け野原になった。
この重い事実から学ぶべき教訓は、もっと広くて大きなものだとの感を強くした。