「三国志演義」4-1 | 世界文学登攀行

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世界文学の最高峰を登攀したいという気概でこんなブログのタイトルにしましたが、最近、本当の壁ものぼるようになりました。

第91回~第95回(P1-131)

史実の流れがある。
小説による脚色がある。

概ね史実に沿ったストーリー展開であれば、説得力が増すだろう。
しかし、史実に逆らうように物語を進行させようとすれば、どこかに無理があり、綻びが生じてしまうことだろう。

三国志演義は、史実では敗者である側の英雄たちを物語の中心に据えた戦記物である。
だからどうしても無理が出てくる。

しかも三国志演義は、戦争の情景が弱い。
戦争の描写なんて、リアリティを追求してほしいわけじゃないけれど、少なくとも兵の数やら、兵器の性能やら、地形やらもろもろ、物理の法則から外れないような描写にしてほしいものだ。数万人の集団戦という背景のものものしさの中で、個人である英雄を活写することは、どうしても戦争というものを記号化してしまっていて、物語に厚みがでてこない。

戦争描写が弱いのだから、兵を率いる軍師たちの頭脳戦も同じようなものである。
諸葛亮の神のような智謀と言ったって、突き詰めれば、じゃんけんに必ず勝ちます、程度の能力だと思う。

小説の身びいきが、諸葛亮に後出しじゃんけんを許しているに過ぎない。

諸葛亮のライバルとして登場する司馬懿(しばい)は言う。
(諸葛亮が起用した大将にについて)「『虚名が高いだけの凡才だ。孔明(諸葛亮)もあんな人物を起用すれば、失敗しないわけがない」(P116)と嗤い、実際にその大将は敗れ去ってしまう。
ストーリーとしては、諸葛亮の采配を実行していれば負けなかったのに、その大将が言うことを聞かなかったばっかりに負けてしまった。ああ、口惜しや。と言いたいところなのだろうが、いやいやちょっと待ってくださいと。
明らかに人選ミスした責任は諸葛亮にあるのだし、天才軍師は天才のまま負けさせなければいけない物語の運びは著者の意図が透けて見え、ますますチープだ。

ただ、僕は知っているのだが、この史実と小説の整合性に無理をしなければいけない部分は、そもそも虚構である小説がその持ち味を発揮する最大の見せ場となることもあるようで、小説として印象の強い場面が創出することも多い。
こうして「泣いて馬謖を斬る」は、後世に残るエピソードとなった。