ドストエフスキー「白痴」1-3 | 世界文学登攀行

世界文学登攀行

世界文学の最高峰を登攀したいという気概でこんなブログのタイトルにしましたが、最近、本当の壁ものぼるようになりました。

P201-300


長い助走は終わったようだ。
物語は走り出した。


外国の長編を読むコツは、つらくても、進まなくても、序盤を丁寧に読むことだと思っている。
コツというのはちょっと言い過ぎた。なにしろ、序盤を丁寧に読むのは挫折のリスクをもはらんでいるから。
ただし、古典文学のよいところは、どんなに読みにくくても、外れがないというところである。(個人的に合う合わないはあるだろうけど)
だから面白くなるところまでは、鋼の意志で読み進めるしかないが、どこかで面白くなることを信じられる。
僕の場合は、そんな意志も薄弱であるから、リストを順に読むということを課して、自分をルールに縛りつけているわけだが。


前にも書いたことがあるようなこんなことを、またなぜ繰り返して書くかといえば、今回もやっぱり面白くなったからだ。「白痴」は比較的最初から読みやすい部類の物語だが、加速的にどんどん面白くなっている。
人物が出てくるたびに、付箋にかきつけて、関係図を整理して、忘れたらノートを見返して、そうやって苦労して自分の中に設営した舞台で、物語が動き出す。
小説の中に舞台が綿密に描きこまれている分だけ、そこには世界が構築された。
凡百の小説を読むよりも、一冊の優れた小説に出会えればよい。
読書はエネルギーの必要な作業だが、その分、得られる喜びも大きい。
良書を読んだ苦労は報われる。そんなことをもう一度書きたくなる気分になった。


さて。ドストエフスキーの作品である。
出てくる人物のキャラクターがみんな濃い。
そんな登場人物に囲まれて、主人公はかえって個性を光らせている。
読み進めながら感じる、ほんの些細な行動の違和感の中にも、何かの波乱を予感させる含みを感じるのは、僕自身がだいぶこの物語の世界の中に入ってこれたからだろう。だんだん一度に読めるページ数が増えてきたのもうれしいことである。


登場人物の中に、この人、どこかで見たことある気がするなあと思った人がいる。
あ、そうか。ドン・キホーテに雰囲気が似ている、と気づいた。
セルバンテスの「ドン・キホーテ」を、ドストエフスキーはとても高く評価していた、ということをどこかで読んだのを思い出した。
自分も読んだ本である。そういう感動を共有できることもなんだかうれしいことであるし、読者と言うのは専ら作者から与えられる存在なのかもしれないが、書き手の側からも少し考えられる気がして、少し読書に深みができるきっかけかもしれないなあなんていうことも思った。


物語は残り1000ページ以上もある。
ただ、もう、軌道に乗った気がするから、油断せずに継続的に読み進めればそれでよい。