和田竜「村上海賊の娘」3 | 世界文学登攀行

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世界文学の最高峰を登攀したいという気概でこんなブログのタイトルにしましたが、最近、本当の壁ものぼるようになりました。

「村上海賊の娘」第三巻


僕が歴史小説を読んでいたのは学生時代の頃であるからもう20年も前のことだ。
戦国時代を取り扱ったものは、当時ですら古典となりかけている、吉川英治や司馬遼太郎のものを好んで読んでいた。


数多くの実力者が群雄割拠する時代。
織田信長あるいは豊臣秀吉がものすごいエネルギーで日本を一つにまとめ上げていく中で、小説の光が当てられていたのはどちらかと言えば天下人の方であったように思う。
あるいは、その反射として、天下人との対応に苦慮する、天下人になりけれなかった有力大名が主人公になることもあった。


この小説では、さまざまな立場の人が出てくるが、そこで描かれているのは、織田家や毛利家というスーパーパワーに翻弄され、膝を屈し、頭をかがめて生きる、弱い人たちだ。
自由気ままな海賊だって、例外ではない。
村上家は、武吉のいる能島の他に、因島、来島という三家があるが、因島と来島の村上家は、毛利家に従い、秩序の中で窮屈な行動を余儀なくされている。
これに対し、独立独歩を貫く、能島の村上武吉は、世の中を見通す卓越した人物として描かれる。
なにものにも縛られない武吉の自由な生き方をうらやむ因島村上の当主とのやり取りの中で、次のように小説では描かれる。
「武吉にも、自家を保つためには、(因島)吉充のように自立の道を捨てる方がいいと分かっている。だが、この男の異常なまでの剛毅な精神がそれを阻んでいた。毛利家に頭を下げることが、どうしてもできない。いまでは武吉は、自分がこの時代にはそぐわぬ、何事かが欠落した人間なのだと突き放した考えを抱き始めていた」(P160)


高度に社会が組織化された現代においては、ほとんどの人が自分という無力な個人が、何か巨大な組織機構に頭を押さえつけられていると感じているのではないだろうか。
そんな、自分を社会に適応させることが、最も合理的な選択であることを理解しながらも、どこかそこには自分がないのではないかという満たされない気持ちを抱えた、現代人のもやもやとした気分が、武吉という天才をむしろ欠落した人間と自嘲させ、突き放すことによって表現されているように思う。


次巻が最終の4巻となる。