39歳になって最初の読書。
なんとなく、普段とは違うものを手にとってみようかということで、最近気になりだした太宰治の代表作「人間失格」を読む。
実は再読である。
一度目は高校生の時。
芥川龍之介と並ぶ大文豪。その代表作の「人間失格」。
高校生の頃は吉川英治ばっかり読んでいたから、いわゆる文学作品には疎くて、有名な作品一本釣りだったのだと思う。
当時、読んだ感想だが、さっぱりわからなかった。
わからないだけではない。この読書経験が、太宰治はなぜか周りがありがたがっているけど、大した作家じゃない、という評価を自分の中で決定的にした。
そして、20年の時を経ての再読である。
軽く、作品自体に触れると、太宰治は1948年6月、39歳の時に入水自殺を遂げる。(今の僕と同い年なんだ・・・)
その直前に書かれたのが「人間失格」であり、刊行は死後である。
そういう経緯もあるため、この作品の主人公である葉蔵の手記という小説の体裁の中に、どれだけ太宰本人の肉声が含まれているかというのは、興味のあるところである。
しかし、作品は作品であるのだから、そういうことはいったん頭の隅において、作品として読んでいく。
ある種の異常人とも言える葉蔵は、社会のレールから脱落していく。
愚かともいえる行動を取り続ける葉蔵は、レールの上をなんとか歩いている人たちの目から見ると、努力が足りないとか、我慢しろよとか、みんなそういう中でやっているんだよ、といくらでも上から非難できるタイプの人間である。
けれど、だんだんと、この葉蔵の姿を、自分と重ねてしまうのである。
僕らは、社会から守られるために、自分のやりたいことも犠牲にし、読みたくもない空気を読み、精一杯社会に迎合しているだけで、人間の本然的な姿からは、むしろ葉蔵のような生き方を余儀なくされる方が必然なのではないかと言う気すらしてくる。
葉蔵の精一杯の決意や努力や行動など、あざわらうかのように、状況は悪く進行していってしまう。そこにも、人間が生きるということの哀しみが凝縮されているようで、胸の奥が不安な気持ちになってしまう。
葉蔵は手記の最後に自分の姿を顧みてこう綴る。
「人間、失格」
この一言を見た時に、葉蔵の肩を揺すぶりながら、君は人間失格なんかじゃないんだ、と涙を流して訴えたいと思った。
それは、彼に届けたい言葉なのだろうか。彼と変わらない人間の業を背負っていることを余儀なくされている、自分に向かって届けたい言葉なのだろうか。
気張っている、心の芯を溶かす毒薬のような作品であった。
そして、今、本当に読んでよかった。
太宰は、僕に一番必要な作家なのかもしれない。
自分にとっての文学の需要の一つは、確実にここにある気がした。
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