デフォー「ロビンソン・クルーソー」1-5終 | 世界文学登攀行

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世界文学の最高峰を登攀したいという気概でこんなブログのタイトルにしましたが、最近、本当の壁ものぼるようになりました。


P421-534終


長い航海のように思えたけれど、最後は一気に読まされた。
この辺まで読んでくると、物語の進展は、ちょっと都合がよすぎるかなとも思うけど、そんなことはどうでもいいの。
だって、物語そのものを語るのがメインというよりも、何か言いたいことがあって、物語が紡がれているのだから。
冒険物語の体裁をとっているけれど、この物語は、一人の近代合理主義精神の持ち主が対峙する、極めて宗教的な物語、と僕はとらえたい。


と、しかつめらしいことを、今までのブログでもさんざん言ってきたけれど、そんなこと、気になったらそう読めばいいだけの話で、物語自体は、男の子の冒険心をくすぐる、とても面白い作品である。


上巻最後を締めるところで引用するものではないのかもしれないけれど、今まで独りで神を求めていた男が、誰かと信仰を分かち合う体験について語ったのが印象的だったので、2箇所ばかり書き抜いて上巻の感想を終わりにしたい。


「この無知な人間を教え導くのに私がとったやり方は、まさしく、知識よりも誠意にたよるという以外には方法がなかったのだ。私と同じこの方針で事をはこぼうとする人は誰でも経験すると思うが、このあわれな蛮人にいろんな説明をするにあたって、私自身が啓発され教えられることがじつに多かったことを白状しなければならない。たんにそれまでに自分が知らなかったことや、充分に考えていなかったことばかりでなく、教えるために問題をきわめようとするにさいしておのずと私の心にうかんできたことなどが、まさにそうであった」(P384)


「私はいつも聖書を熱心に読んだ。自分の読んだところの意味をできるかぎり彼に伝えてやるためであった。これに応じて彼もまじめに根掘り葉掘りいろんなことをきくので、おかげで聖書の知識にかけては自分一人で漫然と読んでいるときよりも、いっそうすぐれた研究者になった」(P386)



人間は、他者と交わり切磋琢磨していくことで磨かれていくものだ。
学ぶ、ということの本質も、他者のために何をなしうるか、という目的を得た時に、その力は大きく飛躍する。