9月26日の独演会で口演する予定の二つの物語のうち、第二話では、信長と宣教師の間に立った、一人の琵琶法師について語るつもりでいる。

 

 安土桃山時代にスペイン・ポルトガル等から来日した宣教師たちには、日本人と渡り合ってゆくために欠かせない要素がいくつかあった。

 一つは言うまでもなく日本語の能力だが、ただ日本語が話せればよいというものでもない。

 「物語る力」が求められた。

 なぜなら彼らの主たる目的である、聖書の内容を伝えるという行為は、キリスト教世界の一大叙事詩を物語ることに他ならなかったからだ。

 

 だけでなく、当時の日本人たちが共有する、仏教・神道に関する知識も必要だった。

 それというのも、宣教師たちが来日した時代、彼らが持ち込もうとした概念の多くが日本人には迂遠なものであり、したがってそれらの概念を表す言葉がない。

 そこで借用せざるを得なかったのが、仏教や神道の用語だ。

 だが当然、来日したばかりの宣教師たちにそんな広範な知識と能力は望むべくもない。

 彼らもそれを自覚していた。

 

 そうした不足を埋めたのが、琵琶法師だった。

 その魁となった男の名を、ロレンソ了斎という。

 

(キリスト教の伝道師となったロレンソ了斎)

 

 ほぼ盲目だったという。

 ただ古今の琵琶法師の例にたがわず、驚異的な記憶力を持ち、卓越した「語る力」の持ち主であったという。

 もとは了斎とだけ名乗っていたようだが、ザビエルに帰依し、「ロレンソ」という洗礼名を授かる。

 

 数奇な運命を辿ったこの人物については、スペイン人宣教師で日本に帰化した結城了悟氏の著「ロレンソ了斎 平戸の琵琶法師」(長崎人物叢書 2005)や、同じくスペイン人司祭であったホアン・ルイズ・デ・メディナ氏の論文「キリシタン布教における琵琶法師の役割について」に詳しいのだが、原資料としてはやはり、ロレンソ了斎と直に接した宣教師ルイス・フロイスの遺した「日本史」に依ることになる。

(ルイス・フロイス)

 

 フロイスの記述からは、宣教師たちが日本の仏僧や知識人と教義上の宗論をたたかわせる時は必ず、ロレンソ了斎を伴っていたことが分かる。

 だが残念なことに、ロレンソと仏僧が交わした会話の記録は、具体的な言葉の応酬の部分が欠けているものが多い。

 フロイスの「日本史」は、その記述の仕方があまりに微に入り細に渡ったため、これをバチカンに提出する際に上長であるヴァリニャーノが「もっと簡潔にせえ」と命じた程だそうだが、それにしては大事な部分が抜け落ちている。

 

 しかし仏教諸宗派のあらゆる教義に通暁していたというロレンソと、宗門を背負って討議する仏僧との対話の場を想像する時、ふと思う。

 

 フロイスには、彼らが何を論じ合っていたかなど、チンプンカンプンだったのではないか、と・・・

 

 いや、対仏門だけとは限らない。

 フロイスはおそらく彼の人生のハイライトの一つであったであろう織田信長との対面の場にも、ロレンソを帯同している。

 しかしそこでもやはり、信長とロレンソの対話の、一番大事な部分が書き留められていないのだ。

 

 そうした、対話の抜け落ちた部分、資料の行間を埋めるところに、語り芸の本領発揮となる契機はあるに違いない。

 

 さて途中が長くなったが、ここからだ。

 先述した「宣教師が日本人と渡り合ってゆくために欠かせない要素」のもう一つに、音楽の素養がある。

 宣教師たちは信長からの庇護を受け、各地に神学校を造ると、音楽教育に大きな力を割いたという。

 物語を伝える上で、音曲が多大な効果を生み出すという理解は、平家物語の語り部にも聖書の語り部にも共通する直覚であったろう。

 

 ただ、その「音曲」の質と態様が違った。

 メディナ氏の論文によれば、宣教師たちは教会のミサで多声(ポリフォニー)による歌を歌ったが、これが当時の日本の信徒たちに甚だ不評であったという。

 そこで日本の信徒たちは「聖書の叙述の韻律を整え」、「現地(日本)の音楽を取り入れることで、聖書のテキストが新しいキリシタンの記憶にも心にもより良く染み通った」(前掲論文P.175)としている。

 

 ロレンソ了斎という一個の個性は、神学論争での弁舌もさることながら、東西の世界認識がこすれ合う現場を音曲付き語り芸をもって橋渡しするところに、光彩を放ちはしなかったか・・・そう思えてならない。