鎌倉五山第一位・建長寺での公演を間近に控えた今月初め、鎌倉市街から建長寺へと通じる小袋坂を歩いた。
いや正確には「私が小袋坂だと思い込んでいた坂を歩いた」と書く方が正しい。
台本は既に出来上がっていたが、画竜点睛とでもいおうか、最後の一点を満たすため、小袋坂の空気を吸っておく必要があった。
先に書く。
小袋坂には鎌倉時代、罪人の処刑場があった。そこに建ったのが、建長寺だった。
建長寺は今から約770年前、北条時頼を開基(建立した人)、蘭渓道隆を開山(初代住職)として建てられた、いわずと知れた臨済宗建長寺派の大本山だが、その創建の経緯の詳細は明らかでない。
建長寺が建つ以前、この地には心平寺という寺があり、建長寺創建時には、地蔵堂だけが残っていたという。
通常、禅刹の本尊は毘盧遮那仏か釈迦如来であると聞く。
だが建長寺の本尊は地蔵菩薩像となった。
地蔵とは由来、地獄に堕ちた者を救いに来てくれる菩薩であると信じられてきた(日本において)そうだ。
治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)あたりからこの建長寺創建あたりまでの人々の信仰を探ってゆくと、「顕密」と呼ばれる天台・真言といった仏教界のメジャーを相手に、新興のいわゆる「鎌倉新仏教」と呼ばれる各宗派の台頭が、構図としては見えてくる。しかし更によく目を凝らすと、その構図の隙間に、「地蔵信仰」らしきものがひょっこり顔をちらつかせているのが見えてくる。
たとえばこうだ。
この時代の武士達や寺社から依頼を受け、多くの仏像を彫った運慶が、誰からの依頼でもなく、つまりは何の制約もない状態で「ただ自分のために(或いは思うがままに)」彫ったのは、地蔵菩薩だった。
運慶は京都に、自ら地蔵十輪院という寺を建てている。
そして地獄へ迎えに来てくれる地蔵を希求する心は、どうも運慶だけでなく、当時の社会の最底辺に澱のように沈殿する信仰であったように思えるのだ。
さてそろそろ北条時頼の話をしよう。
これまた先に私個人の結論を先に書くが、時頼は撫民政策の一環として、つまり万の民を安んずるために建長寺の本尊を地蔵菩薩としたのではなく、自らを救わんとして地蔵にすがったのではないかと思えてならない。
時頼は、二十歳そこそこで鎌倉幕府執権の地位に就いてすぐ、宝治合戦という凄惨な戦の当事者となっている。
三浦一族を壊滅させることになったこの戦の経緯は吾妻鏡に詳しいが、そこにあるのは何とかして三浦一族との戦を回避しようとし、回避しきれなかった戦の後で憑かれたように仏教者たちに教えを乞い廻る若者の姿だ。
道元に、蘭渓道隆に、兀庵普寧に、時頼は彼らの袈裟にしがみつくようにして仏法を求めたとおぼしき節がある。
きっと耳鳴りの一つもしたに違いない。それが死者たちの声であると思われることもあったに違いない。戦後の時頼の行状は、痛ましい求道者のそれに近いものであることが、無味乾燥な資料の行間にも窺える。
そんな時頼が、咎人を処刑してきた地である小袋坂に立った時、何を想っただろう。そこにあったという地蔵菩薩像を前に、何を感じ取っただろう。
そう思い、小袋坂を探した。
知人が「これが本当の小袋坂だ」と教えてくれた小径を往く。たしかに小袋坂感がある。
だが・・・どうも違う。引き返して国道に出る。ここら辺りだろうと目星をつけたところに、閻魔堂(正式名称:円応寺)というのがある。閻魔堂・・・いかにも処刑場であったという小袋坂っぽいではないか。閻魔堂の住持に尋ねる。小袋坂とはここか? 住持が応えた。
「小袋坂はね、もう無いんですよ。」
あっけにとられる私に住持がなぐさめるように続ける。
「あそこに車の通る坂道があるでしょ。あれを小袋坂という人もいるけど、あれは明治時代に横須賀港を造るために切り開いた道でね、あそこのトンネルの上あたりにあった尾根道が、小袋坂だったんですよ。」
私は小袋坂を探すのを止め、ただ青い虚空のような空を見上げた。
まあ、この辺りだ。
小袋(巨福呂)の郷といったそうじゃないか。してみればこのあたり一帯を吹き渡る風に時頼も身をさらしたわけだ。
そこから建長寺の寺域にかけて、私は全身を耳にして歩いてみた。亡者たちの叫びめいたものが、風の中に聞こえるのではないかと半ば期待して・・・
清々しさしかなかったことを告白しておく。
建長寺では、いや蘭渓道隆はこの風を「無限の清風」と呼んだらしい。
はるかな昔に、地蔵が亡者たちを迎えに行った跡(後)を、私は歩いていただけかもしれない。