ふう~ふ~。

 私は足を止めて短くため息をついた。

 坂の道を上がってきたら、左手に海が見えてきた。

 入り江の海で穏やかに凪いでいる。私は坂の上に目を戻した。間引きされてまばらな樹林の向こうに、オレンジ色の屋根と淡いクリーム色の壁の瀟洒な建物が見える。

 夕映えの家、と名がついている。その家に祖母の松宮静香がいる。

 私がここを訪れるのは、この日で12回目になる。私は介護保険による訪問看護を行う看護師だった。看護師専門学校を卒業して看護師国家試験に合格し、有名大学病院の看護師採用試験に優秀な成績で通った、と思う。

 というのは、面接で試験官から、

「筆記試験はトップクラスですね」

 と、告げられたからだった。

 私はその言い方に、トップクラスなだけでは採用になりませんよ、といったニュアンスを感じた。

「どのような看護師を目指していますか?」

「小学5年のときから9年弱ほど、祖母の介護をしておりました。体を使う介護も大変でしたが、それ以上に祖母の気持ちに寄り添うのが大変でした。その経験を活かして働きたいと思っています」

 質問を発した面接官は、ほうといった表情になった。

 他の2人の面接官も、共に視線を強めて私を見つめた。

 結局、私はその大学病院が力を入れていた介護看護の研修所で研修を受けてから系列の介護専門の看護師派遣オフィスで働くようになった。

 

 

祖母の静香は私が小学5年の夏休みのときに、足の疾患で車いすユーザーになった。当時、我が家は父が出張の多い仕事で、母も働いていた。零細に毛の生えたような会社勤務の父は安月給だったし、私と3歳離れた弟もいて、その私たちに世間に恥ずかしくない教育を受けさせて育て上げるまでは頑張らなければ、というのが母の気持ちの中では重きをなしていた。

 1年も経ったら家事の半ば以上を私はこなし、祖母の介護もそつなく行うようになっていた。祖母は気むずかしい性格で、〇〇を取ってきて、といわれて私が間違えたものを持っていくと、ガミガミと叱ってきた。学校から帰ると、冷蔵庫のレトルト食品をメインにして祖母と私と弟の夕食を作った。学習塾事務員の母は夜8時前後に帰宅し、自分の夕食を作り、私たちの分の夕食の後片付けをした。

 それから、明日の朝食の下ごしらえを行った。祖母はまだ車いすでダイニングにいることが多くて、カウンター越しにキッチンにいる母とよく口論をした、

 と言っても、祖母が一方的に母に小言をぶつけ、母が黙ってそれに耐えるという展開だった。着るものが最近少し派手だとか、明日は休日なのになぜ出かけるのかとか難癖をつけているように聞えた。私は少し派手な服装の母が気に入っていた。休日の勤務は父母面接があって、母は受付などの応対をやらなければならなかった。

 私は祖母が嫌いだった。その祖母の介護を嫌がらずにやったのは、母に負担がかかって病気にでもなられたら大変だ、と思ったことが大きい。父は小学生の私から見ても頼りない人で、うちにいるときは1杯の日本酒の晩酌に酔ってグチュグチュ自分を愚痴った。

 そんな父に対し、祖母は猫なで声で接した。

私も弟も母のことは好きだったが、私が祖母を嫌いなのに、弟は父が嫌いだった。

 ヤングケアラーとしての私は中学を卒業する頃には、職業としてのお手伝いさんが勤まるほど家事万端に通じるようになっていた。

もちろん、介護の腕前も。

 祖母はメンタルが強いというのか、身障者ながら体力に関してはあまり衰えを見せなかった。介護保険の利用はしていたが、他人の世話になることを嫌い、訪れたケアマネを前にして私を指さし、

「この孫娘に引けを取らないサービスができる態勢を取れますか」

と、開き直る始末だった。

 

 

 ところで、私はヤングケアラーになってから1度も祖母から感謝の言葉を受けたことがなかった。1回でも有り難うと言われていたら、祖母に対する評価はまだ増しになっていただろう。

 その祖母に対する裏返しの気持ちからなのか、私は祖母をこれ以上、献身的にはできないというところまで尽くすようになっていた。

部活は無論のこと、気のあったクラスメートたちと雰囲気のいいカフェでお茶する時間さえなかった。

 そういう不満を祖母さえいなければではなく、祖母に献身的に尽くすことで解消するようにしていたのかもしれない。その奥の自分の心を見通せるとしたら、私なりの祖母への復讐だったのではないか。

 そんな私ながら、近隣では明るくて陰ひなたのない女の子として評判を取っていた。

 高校入学をを翌春に控えた秋半ばに、父が脳梗塞で倒れて入院し2週間で息を引き取った。そのことは我が家の歯車を大きくズレさせることになった。

 小企業勤務で安月給だったとは言え、その安月給が欠ければ家計には大きく響く。私はすでに看護師専門学校への進学を決めていたし、弟のほうが大学を卒業するまでの学費

はもっともっとかかるだろう。

 母もそれで悩んだと思う。

 

 

父の三周忌がすんだ頃、新たな異変が我が家を見舞った。

 父が亡くなって気落ちした祖母が認知症を発症していたことが分かり、それが我が家にとって大きな難題になった。私は再来年の看護師専門学校の受験を開始していたし、弟も高校受験を目指して夜遅くまで塾で勉強していた。

 介護利用者としてのサービスを増やして貰うことで急場をしのぐことにしたが、私にかかる負担は思うほど軽くならなかった。

 超ハードな時期を乗り越え幸い、看護師専門学校には合格できた。それに志望高校に入学できた弟が祖母の介護を

積極的に手伝ってくれるようになった。

 祖母の認知症は進行が早かった。母の顔を見て怪訝そうに見て、

「あなた、どなた? お手伝いさん?」

 と、問いただした。弟を亡くなった父の高校時代と勘違いして、

「竜彦、竜彦、竜彦…」

 と、亡父の名前を連呼した。

 ベッドや、車いすでお漏らしすることが続くようになった。

 母と私は有料の介護着き施設を訪ね歩くようになった。20ぐらいの施設を当たっただろうか。

 そうして決めたのが「夕映えの家」だった。

祖母は入り江の海が大好きだったし、父の実家は西伊豆の入り江の漁師町にある。

 また、我が家から夕映えの家まではドアツードアで1時間30分以内だった。時々、訪れることができる。

 入所の日は私と母が付き添った。祖母は介護専門タクシーの中で怒ったり泣いたりしたが、夕映えの家に着いて入り江の海を見ると機嫌を直した。

 そして、ニコニコしながら、「琵琶湖周遊歌」を歌い出した。

 私はここへくる途中の車内で唐突に祖母から、

「あなた、私を憎んでいるでしょう?」

 と、言われたことを気にしていた。

 一瞬でも、私を孫娘と認識しての言葉だったかどうかは分からない。祖母にとってはたまたま身近にいた1女性の心の奥に潜む自分への憎しみを感じとっただけで、とっさに口を突いて出た言葉だったのだろう。

 でも、私は完全に虚を突かれた思いだった。

祖母に対する憎しみは祖母が認知症を発する前から私の心に醸成されてきたもので、ヤングケアラーとして私の小、中学生生活の多くに犠牲を強いさせたことに対する怒りに始まっていた。

 私にはその怒りのぶつけどころがなかった。

軽蔑の対象だった父にはぶつける気もなかったし、母には母の立場を悪くすることになるのでなおさら口にできなかった。私の不満を祖母が知れば、あなたが私をケアしないからだと母を責めるに決まっていたからだった。

 私は祖母に対する憎しみを心の奥でたぎらせながら、ヤングケアラーとして黙々と励む良い子を演じなければならなかった。それでいて、感謝の言葉1つかけてくれない祖母に懸命に尽くすことで、自分は祖母に復讐しているのだと思うようになっていた。

 祖母が施設に入ることが決まってから、私は心から錘が1つずつ消えていくような心地を味わっていた。

 でも、1つ残った錘がある。それが何だかよく分からなかったが、祖母の言葉は図星だったのだろうか。

 施設に入ってからの祖母は、幸い情緒的には安定した。波静かな入り江を臨む風景が気に入ったことと、メインのヘルパーさんの杏子さんの明るい介護がアルツハイマー型認知症の祖母の心まで和らげたようだった。

 杏子さんのことを祖母は、名前の1字の杏を認識して、アンズちゃん、と呼んでいた。まだ夕映えの家の利用者になって2年そこそこなのに、私は今日で13回目の訪問になる。

 失った記憶のあとを辿っているように穏やかな祖母。私を見てコメディーを演じている喜劇役者のように笑い転げる祖母。悲恋を描いた映画の別れの場面に感極まったようにポロポロ涙を流す祖母。ガーゼのハンカチで涙を拭ってやった私に取りすがって、祖母はお母さんお母さんと甘えた。私を自分の母と思い込んでのことだったのか。

 実は12回のうちの3回は、私の顔を見るなり祖母は目をつり上げて逆上し、発音不明瞭な罵詈雑言をぶつけてきた。私は祖母の部屋を出た。いつも追ってきたアンズちゃんと、屋外で入り江を見下ろしながら、つかの間のおしゃべりタイムを持った。

 心に強く刻まれた会話がある。

「松宮静香さまはあなたのことが大変お好きだったようですね」

「えっ、嫌われていたと思うんですが…」

「お好きな以上に申し訳ないと思っていたのではないでしょうか」

「でも、さっきの態度は~」

「脳内に記憶の断片が甦った、と私は思うんです。あの激昂状態はご自分に対する怒りだったのではないでしょうか」

「すると、私を孫娘と認識できてのことですか?」

「それはどうか分かりません。同じ血が流れていることを一瞬、直感して…」

 アンズちゃんは途中で言葉を呑み込んだ。

 私は回想を打ち切り、ゆっくり歩みを再開した。

 心に1つだけ残った錘を意識しながら。

 

 

 淡いクリーム色の外壁は、水平線にあと数センチで着水しそうな夕陽に映えて少し赤らんでいた。

 その外壁に車いすの人影と、その傍らに立つ人影が大ざっぱに翳りを作っていた。祖母とアンズちゃんは、夕映えの家の敷地で両側を芝生に挟まれた舗装部分から水平線に落ちていく夕陽を見ていた。

 私が近づいていくと、アンズちゃんが私に顔を向けて、あら、と叫んだ。

「松宮さま、お嬢さまですよ」

 アンズちゃんは祖母の肩を歩く叩いた。

「あら、珠世じゃないか。しばらく見ないうちに、見違えるように大きくなったねえ」

 祖母は私を見て相好を崩した。

「ご無沙汰しています」

 私は珠世さんになりきることにした。

 珠世さんは亡父の3歳違いの妹で、5歳で早世したと聞いている。

「はい、お母さん、カルカンよ」

 カルカンは祖母の大好物だった。

 亡き父が出張の帰りに東京駅の銘菓店で購入し、祖母へ渡した。祖母は棒状の真っ白いカルカンを、食べやすいようにナイフで切って自分だけで食べた。

「♪カルカン、カールカン、私のよ~い子よ~~~」

 祖母は変な節で歌いながらカルカンの包みを開けた。

 そして、棒状の1つを掴むと水平線に着水し、ほんの少し欠けた夕陽を眺めながらむさぼるように食べだした。

「松宮さま、お夕食のあとですから、それでもうやめておきましょうね」

 アンズちゃんが諭して言った。

 祖母は夕陽を食い入るように見つめた。

 そして、口走るように叫んだ。

「珠世、あなたには本当に感謝しているよ。

苦労かけたね、有り難う」

 えっ、と私は絶句した。

「珠代さんとあなたが一緒になっているようです」

 アンズちゃんが私に目配せしながら言った。

「お母さん、気にしないでくださいね」

 私は右手で祖母の肩を抱きながら、その顔を覗き込んだ。このとき、私の心にたった1つ残っていた錘が消えた。

 祖母が私を一瞬でも孫娘と認識したかどうかは、

もうどうでもよかった。祖母は私に感謝し有り難うと初めて礼を言ったのだ。

それがすべてだった。

 祖母は2つめのカルカンをつかみ取ったところだった。