母は1900年ちょうどの生まれだった。
関東大震災の年は、
東京の下町本所にあった技芸学校に通っていた。
和洋裁、和洋料理を教えるところで、
簡易な花嫁学校だった。
いとこの許婚がいた。
100年前の今日、
母たち寄宿生は昼食を作り食べるために、
道を隔ててすぐのところにある寮に戻った。
昼食を作り終えないうちに、
寮がガラガラと大きく揺れて傾いた。
母たち寮生は着の身着のままで飛び出した。
火の手に追われ必死に逃げ惑った。
気がついたときには、
火の手を遠く背後にトボトボ独りで歩いていた。
伊豆の実家まで歩いて帰るしかなかった。
道々で炊き出し等の支援を受けて、
寺社、学校を好意で仮の宿を授かり、
橋や、鉄橋の壊れたところは、
地元の人たちの善意による渡し船に乗り、
ひたすら伊豆を目指した。
酒匂川を渡し船で渡り対岸に着いて、
初めて人心地がついたという。
そこはもう小田原市で、
いとこの許婚の実家がある。
その実家で泊り身支度を新たにして、
許婚に送ってもらい実家に辿り着いた。
母は微震に対しても反応が早く、
素早く庭へ飛び出した。
それから僕や、姉たちの名前を呼んで、
「早く出てきなさい。何をしているの!」
と、叫び立てた。
そんな微震は無視の僕らは、
あっけにとられるだけだった。
普段の母は気丈な性格だったのに、
地震に対する反応は、
過敏を通り越していた。
関東大震災で九死に一生を得たが、
その体験を話すことは一切なかった。
父にも話すことはなかったという。
伊豆の実家へ辿り着くまでのことは、
話して差し支えのないことだったのだろう。
雑誌の新人賞に応募を始めた頃の僕は、
母の体験談をもとに書こうと思い、
寄宿舎をみんなで飛び出し、
火の手から脱し独りになるまでのことを訊いた。
母は顔をゆがめて沈黙した。
父にそのときの母の様子を伝えると、
「ほとんど火に巻かれて死んだんじゃないのかな」
と、つぶやいてそっぽを向いた。
それ以来、
僕は母に火の手から逃げ惑った体験を訊くことはなかった。
1994年初夏、母は94歳で逝った。
健在ならば123歳になる。
関東大震災は完全に歴史になった。
その歴史を掘り起こしている方々には、
心からの感謝を捧げたい。