貧乏にあえいでいる人が,
「巨万の富があったら、どんなにか幸せだろうか」
って、つくづく思う。
でも、巨万の富がある人は、
それを守ることに汲々として、
人を疑うような目つきをしているかもしれない。
さらに資産を増やそうとして、
株価の動きに目を血走らせているかもしれない。
それが幸せかどうかはともかくとして、
巨万の富があったらどんなにか幸せか、
と願う人はそういう境涯になりたい、
という願望を幸せという表現で表したのだろう。
プールつきの豪邸に住むことも、
世界一周のクルージングも、
あるいは小さな宇宙旅行も思いのままになる。
そういうことを思い描いて、
どんなにか幸せだろうか、
と素直に表現したのかもしれない。
何不自由なく贅沢三昧できる身の上の王子様が、
同年ぐらいの乞食の少年を見て、
おつきの者もいなくて自由に行動している、
とうらやましくなり、
自分もあの乞食の少年のようになりたいと思う。
では、それが実現できたとして幸せか。
これは好奇心による欲求で、
実際に体験すれば楽しいよりも、
苦痛のほうがはるかに勝るだろう。
乞食の少年が王子様に成り代われたとしても、
やはり苦痛のほうがはるかに勝るに違いない。
どう転んでも幸せにはなり得ない。
いったい、幸せはどこにあるのだろうか。
幸せの青い鳥は目には見えなくても、
人それぞれの生活の中で身近を飛んでいる。
一代でガリバー企業を築き上げて、
宇宙産業にも出資している人がいるとして、
その人が別荘の近くの海浜をジョギングしていて転んだ。
起き上がって右の掌についた砂を払い、
次に左の掌についた砂を払おうとして目を光らせた。
直径1センチもないような小石がひっついている。
元宇宙好きの少年で、
大人になっても隕石の展示はよく見ていた。
(これは隕石のカケラではないか)
鑑定して貰うと、
はたして隕石の燃え残りだったことが明らかになった。
この人は隕石のカケラだと直感し、
鑑定の結果それが確認されるまでの間は、
文字通り幸せな時間だったに違いない。
小公園をねぐらにしているホームレスの人が、
園内の片隅に生えていたクローバーから四つ葉を1つ見つけて、
とても幸せそうな笑顔を見せた。
今は天国にいるお母さんと5つ6つの頃、
四つ葉のクローバーを競って摘んだことを思い出したのかどうか。
幸せは誰でも感じとることができる。
でも、それを長く我がものにはできない。
だから、素晴らしいのだ。