人って幼時のうちは、

不思議な本能を持っているのではないか。

僕の3歳から5歳は、

1943(昭和18)年から1945(昭和20)年である。

太平洋戦争の真っ盛りの年から終戦の年までになる。

旧国鉄官舎の我が家から小道を隔てただけのところに、

かなり広範囲のエリアを持つ分区があった。

エリア内の送電施設の修復工事を行い、

高圧送電線等の保安に当たる。

言わば、最前線の出城のような役を担っている。

現場に赴かないときの父は事務所で終日、

本区から回ってくる書類を読み、

新しい書類の作成に当たった。

分区のあるところは、

東京都下のまだ田園地帯の趣だったが、

1944年に入ると戦場の雰囲気にあふれてきた。

南東に2キロ弱のところにあった陸軍の調布基地には、

精悍な戦闘機隊が駐屯していて、

よく上空で烈しい訓練を行っていた。

夜間は上空を照らす複数の探照灯が、

白い刃のような光線で夜空を斬り裂いて回った。

4歳の僕にはものものしすぎたが、

怖いという印象はなかった。

あえて言葉で言えば、

「凄い」とか、「勝つぞ」という感覚だったかな。

時をほぼ同じくして、

分区の敷地で在郷軍人の指揮により、

職員たちが敵兵に見立てた藁人形を、

竹槍で突き刺す訓練を始めた。

突撃、と在郷軍人が軍刀を振りかざして叫ぶと、

父たち分区の職員が雄叫びを挙げて藁人形に突進し、

グサッ、グサッと突き刺した。

僕は見物していて、

嘘っぽさを感じた。

曲芸に近い戦闘機隊の訓練や、

夜空を駆け巡る探照灯の光線を見慣れた目には、

とても違和感のある光景だった。

この違和感の正体こそが幼時の本能だったのではないか。

こういう違和感は終戦までに他のことでも何度か感じた。

しかし、それについて語っていると、

きりがなくなるので本題に入る。

僕には15歳年長の兄がいた。

1944年秋に大蔵省税務講習所(現税務大学校の前身)を卒業し、

渋谷税務署に奉職が決まっていた。

翌1945年の春、

兄は20歳で兵隊に行った。

兄の所属した部隊は旧満州に派遣になり、

ソ滿国境に近い地に駐屯した。

すでに沖縄戦が始まっていても、

日ソ不可侵条約下の旧満州は楽園だった。

兄から我が家へ着く手紙には、

厳しい軍務に服しながらも彼の地での平和な光景があふれていた。

しかし、8月9日、ソ連軍は突如国境を越えて侵攻してきた。

兄が所属していた部隊の消息は、

全滅したらしいという噂に近いもの以外はまったく途絶えた。

戦死の確認がとれなくて戦死公報が出せないため、

兄は戦後になっても行方不明扱いだった。

話は少し戻るが、

同年の8月15日に終戦になり、

父母たちも姉たちも兄が無事復員してくると大喜びだった。

しかし、兄が復員して我が家の玄関口に立つまでは喜べない。

そのように思ったせいか、

僕は大喜びした記憶がない。

むしろ、本当に戻ってこれるのだろうか、

という不安につきまとわれたような思いが残っている。

それから1週間ほど経った真夜中のことである。

僕は、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、という遠くから響いてくる音に、

兄ちゃんが帰ってきたと飛び起きた。

兄が自室にしていた三畳間に入り窓を開けた。

すぐ外は我が家と分区を隔てた小道のはずだが、

真っ直ぐ砂利道が続いている。

一団の兵隊が鉄砲を担いで軍靴の響きを合わせ、

こっちへ行進してくる。

だが、途中で激しい銃声が起こり、

一団の兵隊は阿鼻叫喚の状態を見せながら次々に斃れていった。

銃声が止んだ。

1人、立ち上がった。よろめきながら近づいてくる。

「兄ちゃんだ、兄ちゃん! 兄ちゃん!」

僕は窓の外側についている木の格子を揺さぶるようにしながら叫んだ。

兄ちゃんはすぐ近くまでくると、

血まみれの顔で笑った。

後ろに手を回して戻すと、

赤い鬼の面を握っていた。

それをかぶり変な手振り身振りで踊り出した。

「兄ちゃん! 兄ちゃん!」

僕は泣きながら叫んだ。

「忠男(僕の本名)、しっかりしろ!」

父のごつい掌で頭をはたかれた。

「寝ぼけたのね」

母は両手で僕を引き寄せ抱き上げた。

 

1952(昭和27)年春、

シベリアに抑留されていた生き残りの兄の戦友2人が帰国した。

彼らの証言で兄は1945年8月22日の夜半に、

ソ連軍の戦車砲の直撃を受けて戦死したことが明らかになった。

戦死公報もまもなく出されて町役場の職員が届けてくれた。