なぜだ、
と首相秘書官の吉永はつぶやきながら、
首相秘書官室に戻った。
「あなたは今の日本の状況の中で、
私の内閣が置かれた状況を歪んで把握している。最低よ」
ついさっき、首相にののしられたばかりだった。
最低だとはなんだ、
と吉永はなおもつぶやきながら、
執務机の肘掛け椅子に両手を乗せた。首相秘書官は、
政務秘書官2人を含めて6人いる。
他に雑務を行う職員が数人いる。
吉永は本来、各省と政策の調整を行い、
首相スピーチの原案を練る事務秘書官の筆頭だった。
しかし、 政務秘書官の1人は首相の夫で、
高校の数学教師から抜擢された人なので、
政務秘書官としての役割のイロハさえ果たせなかった。
吉永はその首相の夫をサポートしていた。
首相の夫がチラチラ吉永を見た。
首相に呼ばれて叱責されたことを承知しているようだった。
おそらく家庭で自分の悪口を首相から聞かされたのだろう、
と吉永は思った。
たしかに、現内閣には難問が山積していた。
最大の難問は、
予測より5、6年早く5千万人を割った人口問題だった。
現首相は日本で3人目の女性首相になる、
日本初の女性首相が誕生した時代から、
大ナタを振るう感じで少子化問題には取り組んできた。
しかし、実は結ばなかった。
結婚する人はいやが上にも少なくなり、
単身生活を好む女性に引きずられた形で、
男性も独身を通す人が激増してきた。
結婚する人は所得が低い男女に多かった。
共稼ぎすることで、
少しでも豊かな生活を実現したい。
それが本音だった。
子供はそんなに欲しくない。これでは結婚してもらっても子供は増えないので、
出産手当や、子育て手当も歴代の内閣は奮発してきた。
それでも子供を1人持つのがやっとで、
子供を作らないカップルのほうが多かった。
そういう歯止めのかからない少子化問題に加えて、
性的少数者の問題もおろそかにはできなくなっていた。
性的少数者の中での多様化は進んだ。
男性同士、または女性同士のカップルでも様々なケースが生まれている。
男性同士ではどちらかが女性的な存在になり、女性同士ではどちらかが男性的な存在になる。
それは一般的な傾向になるが、
そうではなく男同士の夫婦で、
どちらも女性という性を嫌うケースも多くなってきた。
無論、女性同士のカップルでも共に男性という性が受け入れられない、
本来、純粋な意味での同性愛も目立ってきた。
性以外は女性という男性もいて、
そういう男性に惚れてカップルになる女性も珍しくなかった。
その逆のカップルもまた多く見られるようになった。
こういうカップルの1部は、
子供を作ることもあった。
性少数派が多様化しながらはげしく増えてきたことで、
そのほうに早熟な子供たちがどんどん出現し由々しい教育問題にもなっていた。
都の学校教育局の調査では、
都内の女子高生の43%が同性愛の経験者という結果が出ている。
おそらく男子校でも調査をやれば、
それに近いパーセンテージが表れるだろう。
吉永は自分をチラチラ見ている首相の夫をにらんだ。
首相の夫はあわてて目をそらした。
つけまつ毛が揺れた。
(もう辞めた辞めた。アホらしくてこんな首相秘書官なんてやっていられるか)
どうせ辞めるなら首相の顔に泥を塗ってやる。
吉永の表情に憤怒の色が滲み出した。
吉永は腕時計を見た。
約10分後に、記者団とのオフレコの会見がある。
吉永は不意に亡き祖父から聞いた話を思い出した。
祖父は外相まで務めた衆議院議員だった。
保守系ながら、同性婚の推進派だった。
祖父がまだ若手の議員だった頃、
ニュージーランドの1議員が同性婚の法案を成立させる力にあふれた名演説を行った。
「感動的な演説だったよ。~明日も太陽は昇るし、世界はそのままだ。〜すごいだろこの言葉、後にこう続くんだよ〜影響のある人には素晴らしいことで、他の人には何も変わらない。〜感動的だろう。この名演説のおかげで反対する立場の議員の多くがドッと賛成に回って、あの国は同性婚を認めることになった」
もう100年も前のことらしいが、
この後、5年ぐらいで日本でも同性婚ができるようになった。
それだけ素晴らしい演説だったのだろう。
この話は思い出すたびに妻にも聞かせてきた。
ちなみに、吉永の妻は男性だった。
また首相の夫がチラチラ見ている。
吉永はにらみつけた。
首相の夫は、
カラーリングした髪を揺らし、
あわててうつむいた。
多様化が拡大して行き着いたところに現在がある、
と吉永は自分にささやくようにつぶやいた。

記者団を前に、吉永は立ち上がった。
幹事新聞社の記者が質問した。
「現今の性的少数者の問題についてですが、首相はどうお思いになっているんでしょうか?」
「どう思うもこう思うもない。日本はせっかくここまでこぎつけたのに、
今さら価値観を前世紀にひっくり返し社会を混乱に追いやることはない、
とおっしゃっています。
あの人たちの主張には耳を傾けるし、
多様化と人権は大いに尊重しなければなりません。ただ、時間をかける必要があります。そういうことです」
「吉永秘書官はどのようにお考えですか?」
外からシュプレヒコールが聞こえた。
吉永は一瞬耳を傾けてから答えた。
「私だけでなく、首相秘書室は全員、あの人たちの主張を認めれば社会が変わって不安定なものになるという意見です。そういうことです。この首相官邸の外で行われている、あの方たちの主張には絶対反対です」
「政務秘書官の1人である首相の奥さま、いやいや、失礼申し上げました。旦那さまも同じご意見でしょうか?」
数人の記者が失笑を漏らした。
吉永が語気鋭く発言した。
「同じでしょう。ところで、外のデモのほとんどはカップルだ。私の気持ちを言えば、あんなカップル、見るのも嫌だ。隣に引っ越してきたらこっちが引っ越してやる。嫌だったら嫌だ」
記者団がざわついた。
ざま〜みろ、これで野党が騒いで進退きわまるぞ、
と内心で首相に対し罵声を浴びせ、
吉永は首相秘書官室へ急いだ。
これから私物を整理するつもりだった。

官邸を出るのは夜になった。
外の歩道ではまだ十数組のカップルが残り、
シュプレヒコールを行っていた。
「性的少数者を差別するな〜! 我々は本来、日本に根付いていた〜男女のカップルだ〜!」
「我々を法的にもっと優遇し保護して〜少子化に歯止めをかけろ〜!」
「伝統的家族観を復活させろ〜!」
大きなリュックを背負い裏口から出た吉永は、
耳に痛いそのシュプレヒコールを聞きながら、人気のない歩道へ出た。
一刻も早く妻の待つ我が家へ帰りたかった。