ちょっと強い台風がまともに当たれば、
一気に吹き飛びそうだ。
2階建てで10数部屋はあるようだが、
今どきのアパートとしては恥ずかしいほどの安普請に見える。
3食付きのアパートで、
建てたのは貧困ビジネスの業者だった。
貧困層の人たちを入居させて、
建設現場などに日雇いとして送り込んで、
3食付きの入居費を取る。
ホームレスの人に、
生活保護を受給させて入居させるケースも少なくない。
いずれにしろ、
入居費を払ったら手許にはいくらも残らない。
だから、いったん入居したらなかなか抜け出せない。
「あいつ、今頃、お昼寝かな」
あごのヒゲをヤギのように伸ばした男が通りかかり、
2階を見上げて足を止めた。
しかし、すぐに歩いて、
そのアパートの 角を曲がり
姿を消した。
それから5分ほど経った頃、反対方向からきた2人組が2階を見上げた。
年配の腫れぼったい目の男が、
左から4番目の部屋か、とつぶやいた。 
若くて目に険がある男がうなずいた。
2人は少し戻りアパートの角を曲がった。
どうやら、曲がったところに出入り口があるらしい。
 
2階の左から4番目の部屋では、
そこに入居している70歳前後の男があぐらをかいて、
同じくあぐらをかいた客と話をはじめた。
その客はヤギヒゲの男だった。
「あんたの今の状況を調べさせてもらったよ。電気もガスも水道も止められているそうだな。固定資産税も未納のままだ」
ヤギヒゲの男はボソボソと小声で話した。
「だから、こんなところに入って、その日暮らしをしている」
「それで今日は突っ込んで話をしにきた。腹を割って話しあおう。私も本気だからな」
ヤギヒゲの男は小さなボイスレコーダーを取り出すと、
粗末なカーペットの上に置いた。
「録音するのかね?」
着古したスーツを着た入居者は苦笑いした。
部屋の広さは4畳分ほどで、
左右の壁は粗末な新建材だった。
道から見て左隣の部屋では、
壁に耳を押しつけて角刈りの男が盗み聞きしていた。
男は手帳を取り出し、ボールペンを握った。
そして、メモを取り出した。
隣室の入居者とヤギヒゲの男の会話が重要な内容に入ったからだった。

10日ほど経って、東京郊外の高台に建つ豪邸の裏手に高級車が停止した。
運転席と助手席とリアシートに1人、計3人が乗っていた。
「ここか?」
リアシートに乗っていた角刈りの男は豪邸に目をやった。
2階建てで、どこかファンタジーな作りの洋式建築だった。
「敷地も400坪はあるな。敷地建物で時価7億8000万円は高くはないが、
タワーマンがもてはやされている今は売りづらいだろうよ」
角刈りの男の声は独特の低音だった。
「兄貴のおっしゃるとおりで」
助手席のヘチマ顔の男が笑ってうなずいた。
「兄貴、おれたちは手付金さえちゃんといただけばいいわけですから、
豪邸の時価はどうでもいいですよ」
運転席の大男がヘラヘラした表情で言った。
「そりゃそうだ。1億円の手付金代わりの金の延べ棒をいただければ、それで文句はねえよ。
このベンツは盗難車だし、途中で待機している仲間の車に乗り換えればそれでもう足はつかねえ。
ぬかるなよ」
3人はいっせいにポケットからゴム製の覆面を出すと、
それぞれ自分の顔につけていった。

豪邸の屋内では、
貧困ビジネスのアパートの入居者がヤギヒゲの男を案内していた。
ヤギヒゲの男は、
先日とはうってかわって立派な身なりをしていた。
「なるほどなるほど、ここは数十人規模のパーティー会場にも使えますな。
私は個人美術館風に改装して所蔵の絵画を展示するつもりですが、
吹き抜けのこの大部屋が気に入りましたよ」
「 2階はコの字型の回廊に10部屋が配置されていますが、
どのようにお使いですか?」
ヤギヒゲ男のご機嫌をとるように、
貧困ビジネスのアパートの入居者が訊いた。
「やはり、コレクションした絵画を画家別に展示しようと思っています。
いずれ家族も日本へ帰国して一緒に住むことになりますが、
芝浦にはすでにタワマンを確保しました。
「それは手回しのいいことで。私などはITで一時的に大きく成功しましたが、
新事業に大きくつまずいて会社は人手に渡りました。とどのつまりは、
この家屋敷もあなたに売却することになりました。もう冒険はできない。
天涯孤独の身の上ですが、地道に余生を送るつもりです」
「もう十数年も前ですが、月見物のアメリカの民間宇宙船にあなたが素敵なお相手と乗り込む記事を読みましたよ。あのときは20億円以上かかったんじゃないですか?」
「いや、もう遠い過去の話です。さぁ、2階巡りしてから地下へ参りましょう」
 2人はコの字型の回廊に上る階段へ向かった。
「 SNSで東京の郊外に個人美術館を開きたいが、それにふさわしい物件を探しているという
あなたの英語のメッセージに気づいたとき、この人ならきっと買ってくれると直感しました。
それでこの建物の写真とか、間取り図とかを添付して応募させていただきました」
「そうでしたか。送られた資料を見て、これだこれだと膝を打ったんですよ。
帰国してすぐにここへ建物を見にきました。大いに気に入りました。
それであなたをあのアパートに訪れて、あらかたの話を決めさせていただいたわけです」
2人は階段を話しながら上りきると、
そこからいちばん近い部屋に入っていった。
すべての部屋を見てまわって上機嫌のヤギヒゲの男を伴い、
貧困ビジネスのアパートの入居者、いや、
この豪邸の持ち主は嬉しそうに階段を降りてきた。
「では、あちらへ」
と、ヤギヒゲの男に顔を向けて地下室へ案内していった。

その地下室の手前半分は応接室になっていた。
奥の半分はシェルターで、
何かのときにはそこへ避難して頑丈なシャッターを下ろせる仕組みになっている。
豪邸の主は応接室のテーブルに、
ここの土地建物の売却に必要な書類を丁寧に並べていった。
権利証、売買契約書、公図、その他もろもろ。
ヤギヒゲの男は一つ一つ手に取りながら確認していった。
「どうでしょう?」
「はい、安心しました」
「残金の振り込みを確認しだい、必要書類はすべてあなたにお渡しします。
移転登記の際にはご一緒しますよ。私は資格を取るのが好きな人間で、
宅地建物取引士の資格も持っていますので」
「それは手堅いことで。こっちも助かります」
「では、金の延べ棒を拝見しましょうか」
豪邸の主は、シェルター部分の床に置かれた黒いキャリーバッグに視線をやった。
それはとても頑丈な造りだった。
「はいはい、それではただいま」
ヤギヒゲの男はポケットから鍵を取り出しながら、
それを豪邸の主に渡した。
豪邸の主はキャリーバッグへ歩いた。
ヤギヒゲの男もそのあとに続いた。
「では、確認させていただきます」
豪邸の主は黒いキャリーバックの鍵穴にキーを差し込んだ。
それと同時に、
ヤギヒゲの男が豪邸の主の頭頂部に鋭い手刀を叩き込んだ。
豪邸の主はうめくこともできずに床にうつぶせに崩れた。
ヤギヒゲの男は応接部分に戻ってくると、
ほくそえみながらテーブルの権利証、証明書類等を集めて書類封筒にしまい込んだ。

ゴムマスクで覆面をした3人組が階段を駆け降りてきた。
1人は拳銃を手にしていた。
「あんたらは何者だ?」
ヤギヒゲの男はひるみながらも落ち着いた声で訊いた。
「金の延べ棒もらいにきたのよ。ついでながら、その大きな封筒もいただこうか」
独特の低音が地下室に響きわたった。
「おお、その声には聞き覚えがある。お前は…」 
ヤギヒゲの男は、
目の前のゴムマスクから覗いている2つの目を一瞬じっと見つめた。
「そのいつも血走ったような目にも覚えがある。
お前は10年以上も前におれの運転手をやっていた奴だな」
「相変わらずよい勘をしてますな、おやっさん」
独特の低音の声が冷やかすように言った。
「一本どっこのヒゲ詐欺師という異名もご健在で何より。
1ヶ月ほど前、偶然、おやっさんを見かけたんです。
おやっさんが何か企んでいるときは目を見ればわかる。
詐欺師として人と対面しているときはヒツジのような柔和な瞳をなさる。
1人のときはランランと輝く。そのときはそんな目をしていましたっけ」
「そうか。おれをマークしたか。それであの野郎の住んでいる場所も突きとめやがったか」
ヤギヒゲの詐欺師はシェルター部分の床で伸びている豪邸の主へあごをしゃくった。
それから無念そうに下唇を噛み締めた。
「豪邸の主がいくらその維持ができなくなったからってあんなところに住みますか。
カタギの人ならともかく、今のおれはヤクザですからかえって裏があるなって思いますよ」
「ほう、狙いのいいことだ」
「ちょっと眠ってもらいますぜ」
大柄な覆面の男が注射器を取り出した。
これとほとんど同時だった。
「みんな、そこを動くな。おれたちは警視庁だ!」
大声が飛び込んできて、
さらに多人数の足音が駆け下ってきた。

全部で8人いた。
3人はスーツ姿で拳銃を構え、
他の5人は制服の上から背中に大きく(警視庁)と書かれたベスト風のものを着用していた。
ゴムマスクの3人はシェルター部分に追い込まれて真似事のように抵抗したが、
あっという間に手錠をかけられて床に倒された。
「一本どっこのヒゲ詐欺師よ、観念しろ。この1ヵ月、お前が帰国したと知ってマークしていたのよ」
応接部分に残った腫れぼったい目のスーツの男が、
ヤギヒゲの男のあごを銃口で小突いた。
シェルター部分から目に険のあるスーツ姿の若い男が、
豪邸の主を支えながら応接部分に戻ってきた。
「向こうへ行け」
腫れぼったい目の男がヤギヒゲの男を追い立てた。
ヤギヒゲの男は前屈みに駆けシェルター部分に飛び込んだ。
「おい、これは金の延べ棒でも何でもないぞ! ただの鉄の塊だ!」
キャリーバッグの中身を知って誰かが叫んだ。
「なんだと?」
腫れぼったい目の男がシェルター部分へ駆け込んだ。
それを見て豪邸の主は、
ゆったりと微笑しながら尻ポケットからリモコン器具を取り出し操作した。
ガラガラガラッ、ドッスン、と
鉄製の頑丈なシャッターが降りた。
目に険のあるスーツ姿の若者がニヤリと笑って、
「父さん、うまくいきましたね」
と、豪邸の主へ顔をやった。
「ありがとう。完璧の仕事だったな」
豪邸の主は満足そうに強くうなずいた。
鉄製のシャッターがガンガン鳴った。
内側から何人かが蹴飛ばしたようだった。
豪邸の主は鉄製のシャッターに向かって叫んだ。
「元特殊詐欺団の方々よ。この豪邸の売却がうまく運んだら遠隔操作でシャッターを開けてやろう。
食物飲料は壁にはめ込まれた大型冷蔵庫に充分入っているだろう。ついでながら、
権利証等の必要書類もその冷蔵庫の冷凍室の底に隠されていたよ。それではサラバだ」
豪邸の主は目に険のある息子うながして階段へ歩いた。
「以前、お前がかけ子をやっていて助かったよ。あいつら特殊詐欺で食えなくなって
強盗団まがいのことをはじめたのか。あいつらに探られていると気づいたときには正直弱ったよ」
「父さん、この豪邸の持ち主は今も海外旅行中なの?」
「おお、そうだよ。93歳になるはずだが、頭も足腰もしっかりしている。
私は地中海ツーリングで知りあい、今度の仕事を思いついて帰国したのよ。
この豪邸の売却がすんだらまた日本を出るが、お前もくるか?」
目に険のある息子はほんの少し考えて首を振った。
「まともになるための勉強をしようかな。今回は特殊詐欺時代のリーダーに声をかけられたんで、
父さんに話したら参加しろ、ということだったから」
「手伝わせて悪かったな。これからは自分の好きにしろ。それがいちばんだ」
父と息子は庭へ出て父は門に向かい、
子は裏口に回った。