「お祖父ちゃん、きたよ」

孫の幸大が軍隊式の敬礼しながら入ってきた。

「解ってるよ。ママはもうベランダで洗濯物を干してくれている。

 どこで道草を食っていたのかな。ゲーセンか?」

「お祖父ちゃん、僕、小学3年だよ。そんなとこ、独りでは行かないよ」

幸大は口をとがらせた。

娘の百合子は、週に2回、独り暮らしの私を気遣って訪れてくる。

月に1回は一人息子の幸大を伴ってくる。

私は10年ほど前まで某私大で教授をしていた。

一般的には恐竜学者として広く知られていた。

海外の子供たちからもメールをよくもらった。フリーになってからは恐竜本の監修や、恐竜をテーマに

して子供でも興味を持って読めるエッセイを書いたり、 3年に1回ぐらいは学術的な媒体に論文を発表し

ている。

昔ほどではないが、今でもテレビラジオへの出演依頼や、講演のオファーもよくある。

でも、股関節に障害があって足を引きずって歩くのですべて断っている。

大学で教鞭をとっていた時代は、教室よりも国の内外を問わず現場にいる時間のほうがずっと長かっ

た。恐竜の化石を見つけることに夢中になったものだった。

今は1日3、4時間で執筆をすませば、後は気ままに暮らしている。ところで、今日は百合子がくるな

り、こう言った。

「お父さん、幸大のことでとても頭が痛いことがあるの 」

百合子は眉の間に薄い縦筋を作って、幸大が算数だけクラスのみん.なについていけず、

その時間だけ授業拒否して教室からいなくなってしまうことを訴えたのである。

「たいしたことじゃないよ。私だったらほっとくな、算数はもう切り捨てて他の学科に集中するよ」

「今はそうもいかないのよ、担任の先生も主人もとても心配しているの」

「いいよいいよ、幸大と話してみるから」

そういう経緯があって、百合子は洗濯と昼食の支度をゆっくりやるということで、その間に私は幸大と

話すことになった。

「おい、幸大、きみは算数の授業拒否してるんだってな」

「うん、そうだよ。つまらないし解らないから算数の授業にはもう出るのはやめたんだ」

「まっ、きみは数学的分野に進むわけではないだろうから、算数は無視してもいいかな」

幸大は怪訝な面持ちで私を見た。

「大人になって、買い物して釣り銭を間違えないならそれでいいんだよ。もっとも、

 今はスマホみたいな利器があるから、複雑な計算はそれに任せりゃいいしな」

「お祖父ちゃん、本当に算数拒否のままでいいの?」

幸大は少し頭を混乱させたらしい。私の言葉をどのように理解して良いのか判断がつきかねているよう

だった。

「まずはお祖父ちゃんの話を聞いてみないか」

幸大が素直にうなずいたので、私は、

「5歳のときに耳の病気にかかってね」

と、前置きして、次のように話して聞かせた。


〜両耳の聴力はほとんど失ったんだよ。1年近く耳鼻科に通って回復したけれど、

完全には回復せずにやや難聴だった。後ろや、斜め後方から声をかけられても低い声だと聞き取れな

い。聞こえないふりしたと思われることが多かったと思うよ。

音感を養う上でとても大切な時期を耳の病気でふいにしたから、

正真正銘の音痴になった。

学校に上がって音楽の実技の試験がある日は、嫌で嫌で仕方がなかったもんだ。

その日は寒気がすると母に嘘を言って学校休んだ。でもね、次の音楽の授業のときに、

お祖父ちゃんだけ歌わされるんだ。

教室のみんながお祖父ちゃんに注目している。音楽の先生はピアノで伴奏を始めるが、

どこが出だしかわからない。それで、ハイと言ってくれるんだが、声が出ないんだ。

どうしたの、と先生は咎めてくるし、クラスのみんなは何やってんだって感じで、

ピアノの横のお祖父ちゃんを見ている。

仕方ないから歌ったよ。蚊の鳴くような声でボソボソと読み上げるような歌い方だから、

先生もクラスのみんなも唖然とした。もういいわ、と先生にサジを投げられて

自分の机に戻るときの情けなさったらなかった。

みんなが、なんだ、あいつという目で見ていることに気づいたとき、

お祖父ちゃんの胸の中で入道雲のようにモクモクとコンプレックスが膨らんだものさ。

以来、音楽の時間は拒否して学校の外へ出て近くの神社の境内で時間をつぶしてから戻った。

中学校もそんな状態だった。かたくなに拒否するから先生の方が引いてしまうんだ。

高校に進学して暗雲が晴れたような思いになったよ。

だって、音楽は選択科目だからな。これでもう嫌で嫌で嫌でたまらなかった歌うことで悩まなくてよく

なったんだもの。

幸大よ、安心しろ。数学が嫌なら高校へ行くな。

それとも落第しない程度に頑張って大学へ行ってもいいか。

ところで、お祖父ちゃんは社会人になって10年近くは普通の会社に勤務したんだよ。

営業部勤務でさぁ、成績はあまりあげられなかったけど、気が楽だった。

5年目から6年目かな、お祖父ちゃんにとって1時期、天敵になったものが出現したんだ。何だと思う?

カラオケだよ、わが天敵、その名はカラオケ。

1年位でね、東京のスナックの半ば以上がカラオケ機器を入れたんだよな。当時のカラオケはホント原始的だったな。

狭いしステージに上がって歌いたい歌を店の人に言って、

自分でスタンドに乗っている歌詞カードをめくって申し込んだ歌のページを広げるんだ。

不格好で場所を取るカラオケから伴奏が聞こえ始める。それに合わせて歌うって仕組みだったな。

営業部は、お得意先の会社の担当部署の人たちをちょいちょい招いて食事会を開いた。

向こうの出席の人数を訊いて、こっちも同数が出席しての食事会だった。

お祖父ちゃんは当時としては背が高くて見栄えがよかったのかな。上司に、お前もくるんだ、

と指名された。

食事会をやってそろそろ終わりごろになるとうちの上司が、

「そろそろカラオケでも」と、

接待した会社に声をかけるのよ。

今も大体そんな感じだろうが、カラオケを置いた店は流行の最先端をいっていたから、

接待する側はそのように誘ったんだな。

スナックへ行くとすぐにカラオケになる。あれはこっちのチームとあっちのチームが交代で歌ったが、

それがルールみたいになっていた。

お祖父ちゃんは自分の順番になるとスルーしたんだよ。トイレへ行ったとき、

上司が追いかけてきて、

「何だって歌わないんだ、みんないい気持ちで歌ってんだから勝手なことをするなよ。
 大事な接待なんだからな」

と、厳しく叱られたよ。

いろんな会社を接待したんだよ。その接待メンバーからお祖父ちゃんを外せばいいのに、

その上司は2度目に別の会社を接待したときにもお祖父ちゃんを指名した。

そうして歌の順番がくれば断るわけにもいかなかった。

しょうがないからカラオケのステージに上がったよ。何を歌ったって同じだから適当に歌のタイトルを

伝えた。

そして歌い始めたんだけど、蚊の鳴くような声しか出ないんだ。歌詞カードを読み上げるような調子で

な。うちの会社のメンバーも接待した会社のメンバーも唖然として歌う僕を見ていた。

いや、途中から店の客という客の全てがお祖父ちゃんを見ていた。

それはともかく、適当に曲を選んだので3番まである長い曲を選んでしまったんだよ。

お祖父ちゃんは身の置き所がなかったね。ようやく伴奏が終わると、早足で席へ戻った。

上司は本当に苦々しい表情になっていた。これで接待のメンバーにお祖父ちゃんは入ることもなかろう

とほっとしたんだが、

またまた、その上司は僕を指名した。

お祖父ちゃんはその日まで数日あったんで、いろいろ考えたんだな。

自分は音痴だという劣等感があるからああいうことになってしまうんだ。歌は歌いたいように歌えばい

いんだろう、その歌の心を自分なりに汲み取って歌ってみよう。

よし自分の大きな地声を出して、音痴であることも引け目に感じることもなく、と。

そして、その日がきた。食事会がすむと、当然のようにカラオケスナックに場所を移した。

接待した会社と交互に歌って自分の番がきた。

ところが、上司はお祖父ちゃんではなく、お祖父ちゃんより後輩の部下を見て目配せで歌えと合図した。

「僕が歌います」

お祖父ちゃんは立ち上がってカラオケステージへ向かった。

そうして「勝手にしやがれ!」を歌ったんだよ。
胸を張り轟くような地声で歌の主人公の心を忖度してな。

うちの会社の人たちも、接待した会社の人たちも、
そして、店にいた他の客も一瞬のうちに唖然としてお祖父ちゃんに釘づけになった。

歌い終えたとき、お世辞ではなく、店の人も含めて居合わせたほとんどの人から拍手が起こった。

お祖父ちゃんの胸から小学校以来のしつこい劣等感が跡形もなく消えた瞬間だった。

ここまでの話を幸大は、ときに笑いながらとても真剣にマジに聞いてくれた。

「お祖父ちゃん、その歌、恐竜先生として有名になってからレコードにしたろ。この前、ラジオでリスナーのリクエストでやっていたよ」
「そうか、お祖父ちゃんのその歌を聞いてくれていたんだ」
「お祖父ちゃん、なぜ恐竜の先生になったの?」
「恐竜が好きでね、その方面の専門雑誌に、ときどき論文を投稿していたんだ。採用されることが多かったかな。あるとき、注目してくれていた大学から、うちで恐竜を研究したらどうか、という打診があった。それに喜んで応じただけなんだ」
 「お祖父ちゃんて僕が生まれる前はよく恐竜先生としてテレビや、ラジオに出演していたって?」
「うん。いちばん受けたのは恐竜の鳴き真似かな。誰も聞いたことがないんだから奔放にやった。やればスタジオ中がどよめいたかな」
「1つやってみてよ」
「では、ティラノサウルス」

私は大きく息を吸って、

ゴハゴワ〜ンゴゴゴワワワンググッゲイオ〜ッ

と鳴いた。

「お祖父ちゃんすごい! 

幸大は後で手が痛くなるほどの拍手をしてくれた。

「まだ小学3年ならちょっとお父さんに教わればすぐに追いつくよ。その後は嫌いな科目なんだからほどほどにやっておけばいい。幸大が本当に好きなものはな、ゆっくり夢中でやればいいんだ」

「解ったよ、お祖父ちゃん」

幸大は力強くうなずいた。

「それでこそお祖父ちゃんの孫だ」

私は笑いながら力強く2度うなずいた。