ある日、

突然、

僕の心が半分なくなったんだ。

えっ、どうしたんだろう。

今朝まではしっかりあったんだよ。

半分なくなったものがあったから、

僕は僕でいられたんだよ。

どういうことかと言うとね。

僕の心の半分は仏の心。

あとの半分は修羅鬼の心。

でも、ジキル博士とハイド氏のように、

相容れない人格が僕の心に2つあるというのとは違うよ。

あれは創りものの世界。

二重人格でも多重人格でも

人格そのものの多様性の問題で、

普通は本来の人格がその多様性を

うまくコントロールしている。

誰の心だって優しく寛容に応対できるときと、

こいつ許せねえと憤るときがあるだろう。

でも、

本来のコントロールが働いてほどほどの寛容と、

ほどほどの怒りで収めている。

コントロールの働きが悪いと、

途方もないお人好しを演じてしまうか、

プッツンと切れて憤怒の炎と化してしまうけれどね。

お前、

何を悠長なことをつぶやいてるんだ、

と僕は僕を叱った。

失われた心の半分を何としてでも

取り戻さなければ、

このままでは、

途方もなくお人好しの僕になってしまう。

今朝まではちゃんとした心だったのだ。


今朝、京浜臨海地帯にある大規模水族館に、

僕は魚類の写真を撮りにいった。

イルカのショーでも知られているところで、

イルカのパフォーマンスでも人気が高いらしい。

おっと、

イルカは魚類ではなくほ乳類だぞ。

僕はフリーのカメラマンで、

その水族館へはタウン誌に依頼された

写真を撮りにいったのだ。

一応、

狙った写真はだいたい撮れて水族館を出た。

とたんに、

ボォ~ッとして足許が心細いものになった。

疲れたのか、

と僕は思いながら気をつけて歩いた。

住まいのある街の駅で降りて、

駅前のレストランでとんかつライスを食べた。

そのあと、

真っ直ぐ安マンションの部屋に戻り、

缶酎ハイを一缶ガブ飲みしてから

これは疲れからきたものじゃない、

と心の確かな異変に気づいたのだ。

元カノから電話がきた。

(おカネを貸してほしいの)

普段の僕なら、もう関係ないだろ、

と断って終わりなのに、

「貯金は18万しかない。16万ならいいよ」

と、あっさり応じた。

(16万円じゃ足りないの。40万円いるの)

切迫した元カノの声にすかさず応じた。

「いいよ。サラ金のATMで借りるから」


翌朝、

カップ麺の朝食をとり、カメラを肩に外出した。

まず銀行のATMで預金を全額下ろし、

次いでサラ金のATMで30万円借りた。

道へ出たところで元カノが走ってきた。

「できた?」

「ああ」

僕は40万円を数えて渡した。

「アリガト・ベリーマッチ」

元カノは40万円をハンドバッグに詰め込むと、

たまたま通りかかった空車のタクシーを止めると、

さっと乗り込んだ。

タクシーはあっという間に走り去った。

水族館の前にくるまで、

僕は子供を含む3人の男女におカネを出した。

最初は住まいの最寄り駅の改札口近くで、

中学生らしい男の子に、

「電車賃がないんです。300円貸してください」

と、お願いされた。

「ほら」

僕は万札を1枚、彼に握らせた。

電車の中で中年男が遠くから寄ってきて、

競輪予想紙をパタパタ叩いた。

「軍資金がねえの。3千円カンパしてよ」

「お安いご用だ」

僕は3万円を渡した。

乗り換えを何回かして水族館の最寄り駅で下車した。

駅舎を出ると、

すぐに若い女性が募金箱を両手に抱えて駆け寄ってきた。

「アフリカ飢饉支援の募金にご協力お願いします」

「これでいいかな」

僕は残った1万円札を4枚、募金箱に落としてやった。

水族館の入場券を買いながら、

僕はカネを出したくなる顔になっているんだと思った。

カネが必要な人にはそれが解るんだろう。


水族館は空いていた。

体調6メートルのジンベイザメがいる巨大水槽の前は、

人だかりができていた。

ジンベイザメは、

成長すれば体調16メートル前後になる。

体長に関係なくおとなしいサメなので、

他の複数の魚種と一緒に展示していた。

昨日、

僕はそのジンベイザメと、

ガラス越しに対面するような感じで撮影できた。

威嚇するように口を大きく開けた瞬間もフォーカスできた。

ところで、今見ると、

一緒に展示されていた他のどの魚種も、

大幅に数を減らしていた。

昨日、

写真撮影の世話をしてくれた館員がいたので声をかけた。

「魚の数が減っていますが?」

「あっ、昨日はどうも」

館員は会釈すると続けた。

「閉館後に異変が起こりまして、突然、ジンベイザメが

 他の魚種に襲いかかりだしたんです。他の水槽に隔離すると

 朝方には落ち着きました。餌をいっぱい与えて鎮静剤も投与しました。

 開館前にこの大水槽に戻して様子を見ているところです」

ジンベイザメは動物性プランクトン、小魚、海藻などを食する。

僕はカメラを構えた。

ゆら~りとジンベイザメが寄ってきた。

水槽越しの対面になった。

突然、ジンベイザメは大口を開けた。

僕は立て続けにシャッターを切った。

何かオーラのような気がガラスを透過して僕を包んだ。

ジンベイザメはまた大口を開けた。

吸い出されるように僕が放った不可思議な気が、

ガラスを透過してジンベイザメに吸収されていった。

それは僕とジンベイザメにしか感じられなかった気だった。

「そうか」

僕はうなずいた。

あいつは最初の開口で僕の心の半分を返し、

2回目の開口で残っていた僕の心の半分を奪ったのだ。

僕は立ち上がり駆けだした。

暴れたい衝動に駆られていた。

イルカのショー会場では、

イルカたちがショーの真っ最中だった。

僕はプールに飛び込んだ。

空中での輪くぐりを終えたばかりのイルカに殴りかかり、

組みついた。

「テメーら、みんなノシイカにしてやる!」

イルカに振り飛ばされながら、

僕は絶叫した。