悪い酒を飲んだかな。

駿河湾に面したおれが住むS市の夜の繁華街からここまで、

浜伝いに調子外れのラップを歌いながら歩いてきたのよ。

いくら酔ったって迷いようがないはずなのに、

目の前に見覚えのない岸壁があるのよ。

6000トン前後かなあ。

船首が流線型の豪華客船が接岸していた。

岸壁は小規模ながらオシャレな海浜公園を挟んで、

美しい松林を背景にしていた。

制服姿がりりしい男女のクルーが並んで、

タラップへ誘導される客を恭しく出迎えていた。

その乗船が終了間際になって、

クルーとは違う制服を着た乗員がタラップを駆け出てきて、

あたりをキョロキョロ見回した。

おれを認めて駆け寄ってきた。

「ああ、間に合ってよかったです。運営案内部スタッフの吉平です。

 先ほど、お母様が駆けつけられて、あなた様がお忘れの乗船券を

 お届けくださいました」

「乗船券?」

おれが小首を傾げたとたん、

ダダダダダダダラ~ン、と銅鑼が鳴り渡った。

「さあ急ぎましょう」

おれは手を引っ張られながら、

タラップへ駆けた。


おれは客船が離岸してから我に返り、

何かの間違いだと騒いだので副船長室に連れていかれた。

「なるほど、当方の勘違いでした。本船は明日昼過ぎには

 目的地に到着。お客様が下船されたあと、すぐに出港して、

 明日午後9時過ぎには先ほどの岸壁に到着接岸します。

 それまで船内でお好きにお過ごしください。食堂も

 ナイトクラブも夜通しオープンしてございます」

副船長はデスクに置いた帽子を手に取りながら、

立ち上がった。

おれは「早見」という名札を左胸につけた

若い女性客室係に案内されて客室に案内された。

つかの間、たじろぐほどの豪華な部屋だった。

ダブルベッドに、ソファーセット、デスク、大画面のテレビ。

バスルームには2人ぐらいしか入れないが、

サウナ室までついていた。

「ごゆっくりどうぞ。何かございましたらご遠慮なく
 お申し付けくださいませ」

早見という客室係は、

うやうやしく頭を下げた。

おれはどぎまぎして応じた。

「いやいや、どもども」


シャワーを浴びて少し冷静になった。

少し眠るか、

とダブルベッドに横になったが、

かえって頭が冴えてしまったのよ。

おれは飛び起きて、

窓のカーテンを開けた。

濃霧が立ちこめていて、

船外の様子はまったく見て取れなかった。

すでに外海へ出たのか、

と少し不安になったおれは、

テレビをつけてあちこちチャンネルを回してみた。

地上波もBSも普通に映った。

おれは船内電話で早見にコンタクトを取った。

「この船は明日どこに着くんですか?」

「遠江パラダイスです」

「有り難う」

おれは安心した。

遠江という名がつくからには、

遠州灘のどこかにある新興のリゾート地なのだろう。

おそらく伊良湖岬に近いところではないか。

安心すると空腹を感じたのよ。

おれは部屋を出て食堂に向かった。


深夜だったので、

客は数えるほどしかいなかった。

案内されたテーブルの近くのテーブルに、

神坂翔介がいて食後のものらしいコーヒーを飲んでいた。

おれは叫び声を挙げそうになったが、

やっと、こらえた。

神坂翔介は、

スケボーの世界では超有名人だった。

パーク種目では何度も世界チャンピオンになった。

斜面を流星のように下って弾かれたように跳ね上がり、

空中で見せるエア・トリックは、

誰もが真似できない大荒業(おおあらわざ)だったな。

おれはその大荒業に魅了されてスケボーを始めている。

豪華客船で1人でいるのはプライベートだろうから、

おれは話しかけるのも遠慮した。

オーダーしたエビフライとフランスパンが運ばれ、

好物のエビフライがあまりにもうまかったので、

遠慮なく舌鼓を打った。

その間に、

神坂翔介は消えていた。

おれはスマホを取り出し、

スケボー仲間にメールを送った。

おれにとっては有り難い行き違いで、

豪華客船にただ乗りしていることと、

船内の食堂で神坂翔介に出会ったこと。

返信はすぐにきた。

〈そいつは凄え。大当たりだな。おれの分もサイン、
 頼む〉

サインの件は無視することにした。


ナイトクラブへ行った。

ステージでは、

ゴリラの扮装をしたバンドがバラード系を演奏していたよ。

まだ4、50人の客がいた。

相席でよろしければ、ということで、

女性客が1人いるテーブルへ案内された。

ジントニックを頼んだ。

相席の女性は30代前半だろうか。

黒ビールをチビチビ飲んでいた。

運ばれたジントニックを一口飲んだところで、

彼女は初めておれと視線をあわせ、

モナリザのような微笑を浮かべた。

「1人旅ですか?」

「ええ、向こうに息子が待っていますので」
彼女は嬉しそうに笑って続けた。

「3年ぶりに会うものですから、
 何と声をかけていいものか。あの子の父親も
 一緒に待っていてくれます」

「そうですか」

おれはそれ以上、訊かなかった。

わけありだ、と悟ったからよ。

この女性客は離婚したのではないか。

親権はもと夫側にあって、

ようやく3年ぶりの母・息子の対面にこぎつけたのだろう。

スローな曲に変わったので、

おれは彼女をダンスに誘った。

彼女はモナリザの微笑をして立ち上がった。

何だかとても自然で艶めかしい感じで、

おれと彼女は波間で揺れているように揺れていた。

おれはチークダンスというものに慣れていないが、

彼女の巧みなリードに身を任せていた。

「あちらではどなたがお待ちなの?」

彼女の囁き声がおれの首筋を這い上がった。

「おれは間違い乗船です。遠江パラダイスでは下船せずに、
 そのまま戻ります」

「あら、そういうことだったの」

彼女は上目遣いにおれを見た。

「それでは今の私達って一期一会ね。
 私はあちらで親子3人で暮らすことになるの」

「復縁ですか。おめでとう」



ダダダダダダダラ~ン。

窓ガラス越しの銅鑼の音に、

おれは目を覚ました。

反射的に、隣を見た。

彼女はいなかった。

記憶がどうもはっきりしない。

あれからラウンジで飲み直し、

しこたま酔っ払って部屋に戻った。

彼女もついてきた。

一緒に、このベッドに体を横たえたはずだった。

途中からは夢だったのかな。

窓辺へ行って外を見たのよ。

下船が始まっていた。

岸壁には出迎えの人達が詰めかけていた。

タラップを通って下船した高齢女性と抱きあう高齢男性。

祖父らしい高齢男性を見つけて駆け寄る10歳前後の男の子。

迎えのはたち前後の女性に取りすがって泣きだす

40代後半の母親らしい女性。

岸壁から続くなだらかな丘陵に色とりどりの花壇が配されて、

ところどころに真っ白いテーブルと椅子が置かれている。

そのテーブルスポットに再会をはたした人達が案内されていく。

料理や、飲み物がオーダーできるのか、

テーブルスポットを制服のウエイトレス達が足早に回っている。

神坂翔介が下船した。

高齢夫婦らしい男女が奴に駆け寄り、

左右からしがみついた。

久々の対面のようで、

あの喜びようは神坂の両親だろうな。

昨夜の彼女が下船した。

40歳前後の男性と、

3歳ぐらいの男の子が手を振った。

彼女は何か叫びながら2人に駆け寄った。


下船が終わったが、

乗船する者は1人もおらずタラップは取り込まれた。

ダダダダダダダラ〜ン。

銅鑼が鳴り響いた。

おれはカーテンを閉めて、

デスクの椅子に掛けた。

テレビのリモートを操作したが、

テレビ画面は何の反応もしなかった。

スマホを出して操作したが、

画面は黒いままでまるで無反応だった。

窓の外を見た。

濃い霧に包まれている。

鬱陶しい気持ちになり、

それ以上に耐え難い睡魔に襲われた。

おれは、

ダブルベッドにダイビングしてひっくり返った。


目が覚めた。

スマホの電話が着信中だった。

スケボー仲間だった。

「お前、今どこにいる?」

「豪華客船の中だよ」

おれは窓の外を見た。

夜になっていたが、

濃霧は晴れていた。

月明かりでぼんやりとだが、

少し雪をかぶった富士山の中腹以上が見えた。

「もうすぐ着くけどな」

「おい、神坂翔介は一昨日に死んだぞ。奴のインスタグラムで今日、
 遺族によって公表された」

「何だって。じゃ、昨夜、おれが食堂で見た神坂は・・・」

「そのときはもう死んでいる」

おれは頭の中がこんがらかった。

電話は向こうから切られた。

チャイムが鳴った。

ドアを開けると、副船長が立っていた。

「本船は間もなく到着します。お支度をされてください」

「これはどういう船なのだ?」

おれは咎めるように訊いた。

副船長はにこやかな笑みを浮かべて言った。

「本船は三途の川の渡し船でございます。無事、彼岸の地にお客様方をお運びし 
 こうして帰途につくことができましたが、あと5,6分ほどで貴方様を
 もとの岸壁にお戻しできると思います」