川崎という泣き虫の同級生がいるんだ。

図工の時間に僕が描いた絵を見て泣きだすんだ。

「こわいんだよ~っ」

って僕の絵を指さし顔はあっちの方へ向いてね。 

ウサギの首をキリンよりも長くして、

そのウサギが弱いものいじめをするクロヒョウの胴体を

締めあげている絵だったけど。

奇っ怪な絵を描くのが好きだったんだ。

小学6年のとき、

図工の先生が代わって、

僕が描く絵を批判した。

「素直に感じたままを描きなさい。なぜパンダに

 脚が6本もあるの。それじゃ、昆虫でしょ」

川崎は僕の絵を見ても泣かなくなった。

「あなた、絵が上手になったわね」

図工の先生は褒めてくれるようになった。

上手と言えば、

川崎なんだよなあ。

校内図工展では学校の方針で賞を設けないけれど、

できばえでは突出していた。

「大人以上に上手に描くね。でも、上手に描こうと思わなくていい。

 今でなければ描けない絵を描いて、その特質を伸ばせていけたらなあ」

今の図工の先生の前の先生が、

川崎にそう言ったことがあった。

卒業制作の絵を描いているとき、

川崎が僕の絵を覗きながら、

「前みたいな絵、見たいな」

と、ボソッとつぶやいた。


29年後、

僕は画業15周年記念展を地元の駅の

エキナカのギャラリーで開催していた。

6点の油彩画と、20点ほどの絵本などの原画を展示している。

このエキナカのギャラリーは、

通路を兼ねているのでひっきりなしに人は通るが、

展示作品を見るために足を止めてくれる人は稀だった。

僕はプロのイラストレーターである。

絵本の絵や、定期刊行物のエッセイなどのイラストを描いている。

画商経由で静物の油彩画も売っている。

妻子を養うには不自由しない程度の収入はあるが、

最上弓彦という画家、イラストレーターとしての

僕の名を知っている人は、

一般には極めて少ないだろう。

つまり、僕は無名だった。

すぐそばに僕が佇んでいるとは知らず、

美大生風の2人が足を止めて、

スケボーの上に3本のバナナを載せた油彩画に見入った。

「精緻だなあ。ルーペを使いながら描いたのかな」

「そのほうのスキルは凄いよ。 しかしさ、こういううまい

 絵を描く奴ってゴマンといるぜ」

美大生風の2人はすぐに興味を失い、

僕の前を通り過ぎていった。

「先生、ご盛況ですね」

20代後半の女性が声をかけてきた。

銀座の雨見画廊の企画部に勤めている子だった。

雨見画廊は、

日本ではトップ3に入る有名画廊で、

僕も過去に2点ほどこの画廊を通して売って貰ったことがある。

「100人中99人はただの通行人だよ」

僕は自嘲めかして苦笑した。

「今夜、鬼貫恋慕郎(鬼貫恋慕郎)先生と打ち合わせがあるんです」

「ほう、個展ですか?」

「来年の春にやります。鬼貫先生の作品は初日で完売しますからね」

鬼貫恋慕郎は世界的に熱狂的フアンを持つ版画家だった。

動物画と恐竜画で知られて、

縫いぐるみからアンコをとったような画風ながら、

奇妙なほどの立体感に富んでおり、

それ以上に生命力をみなぎらせて活き活きしていた。

世に出てまだ10年経っていないのではないか。

新築の学校体育館の外壁に、

何者かが夜陰に紛れ吹き付け技法で

版画の下絵のような絵を描いた。

ティラノサウルスとキリンが燃える地球を背景に邂逅し、

不思議な情を通わせる絵柄だった。

メディアで大評判になったが、

近隣の防犯カメラを解析して、

鬼貫恋慕郎という自称画家が逮捕された。

それが彼のデビュー作だった。

「先生、それではまた」

雨見画廊の企画部員は、

展示作品をさっと見終えると、

そそくさと帰っていった。


人通りは相変わらず多かった。

「よう、やってるな」

サラリーマン然とした男に声をかけられた。

小学時代の同級生の川崎だった。

川崎は小学校卒業後しばらくして、

この沿線のもっと郊外のほうに越していった。

大学時代に電車の中でばったり会ったことがある。

それ以来だった。

「新聞の個展案内欄で知った。

 都心のほうへ行きがけのついでに寄らせて貰ったよ」

「すまないな。忙しいはずなのに」

足を止める人が急に増えた。

鬼貫恋慕郎よ、というささやき声も聞こえた。


そう、鬼貫恋慕郎こそ、

小学生時代の泣き虫同級生だった

川崎の今の姿なのである。