流れ星なんかではなく、

ほんとうに本物の星が降ってきそうだった。

彼は足を止めた。

満天の星を見上げながら、

立ったまま一休みするためだった。

低山地帯の尾根を結んだ登山道だったが、

彼はそのコースから分岐する

けもの道のような道を見出して、

それをたどって、ここに到達したところだった。

いくつかの丘陵の谷が入り組むと、

小湖沼状になることがある。

そんな小湖沼が干上がったような谷だった。

その谷を彼は見下ろした。

星明かりに映えて、

鋭く鈍く輝いている。

(間違いない。あれは黒曜石の輝きだ)

彼は獲物を見たネコ科の猛獣のように生唾を飲み込んだ。

彼の職業は大学の鉱山学研究室の研究員だった。

彼の生家は、

直線距離にしたらここから12,3キロぐらいしか離れていない。

彼が歩いてきた登山道で、

その生家にもっと近いところは、

古代から黒曜石が産出するところだった。

生家には黒曜石の置物がいくつもあった。

彼の叔父は料理人で、

黒曜石の剥離片を包丁に加工して、

肉牛の塊を魔法のようにスルスル断ち切ってみせた。

身近にあった黒曜石への興味が鉱山学へ向かわせたのか。

(ここは黒曜石の露天掘りの現場なのか)

彼はそう理解しようとした。

しかし、そんなはずはあり得ない。

今は県都に次ぐ街に移転したとは言え、

生家が近い低山地帯に黒曜石の露天掘り鉱山があれば、

鉱山学の研究者として知らないわけがない。

(たまたま、そこかしこで黒曜石が露出している谷に、

 迷い込んだのだろう)

彼はそのように自分を納得させたが、

釈然としないものが大きく残った。

彼は星空を振り仰いだ。

星空が地上に近づいてきたように思った。

わし座のアルタイルが手を伸ばせば届きそうに、

すぐ近くで輝いている。

(錯覚ではなく、何だかほんとうに手が届きそうだぞ)

彼は手を伸ばさなかった。

錯覚にしたくはなかった。


ホ~ヤンレ~ソ~ ホ~ヤンレ~ソ~

谷から歌声が立ち上るように聞こえた。

星明かりに、

いつのまにか一段と明るくなった星明かりに、

浮び上がるようにして、

鮮やかなグリーンの物体がゆっくりと登ってくる。

(衣みたいだな)

風に波打つように揺れながら、

風をはらんだように膨らみながら、

その衣は、

彼のいるところへ登ってくる。

彼は目をこらして、

その衣を着ているのが少女なことに気づいた。

綠の帽子をかぶっている。

ホ~ヤンレ~ソ~ ホ~ヤンレ~ソ~

少女は彼のところへ上がってきた。

グリーンの衣はシルクのようだった。

古代の人が着た貫頭衣のように、

簡易なデザインだった。

緑の帽子は草で編まれていた。

てっぺんに赤い実をつけた小枝を挿していた。

素足にやはり草で編んだ綠の靴を履いていた。

左右の手首に、

磨かれた黒曜石のブレスレットをつけていた。

それ以上に、

碁石のようなかたちに磨いた黒曜石を連ねた首輪に、

彼は目を奪われた。

つややかに輝く黒曜石の表面で、

白絹の糸のような文様がうごめくように浮いていた。

(こんな文様はあり得ないのに)

彼の頭は混乱していた。

少女は7つ8つだろう。

低山とは言え、

人里離れた夜の山中である。

(何者だろう、この子は?)

声に出して訊く前に、

少女に訊かれた。

「おっさん、何してる人?」

おっさんという呼びかけに、

彼はうろたえた。

「きみこそ、どこの子なの?」

彼は反撃するように訊き返した。

少女は双の瞳を爆ぜるように光らせた。

磨きに磨いた黒曜石のような瞳だった。

「星野みかはやびとの子、ホ~ヤンレ~ソ~」

 少女は歌うように答えた。

「星野ミカハヤビトの子」

名前のほうは古語っぽいな、

と彼は思った。

ミカは実鹿とでも書くのだろうか。

ハヤビトはハヤト、

つまり、隼人だろう。

そのように咄嗟に考えたのは、

彼の父が高校の古文の教師で、

彼も古文書をかなり読み込んでいたからだろう。

一般社会と隔絶して独自の生活習慣を持つ

山の民の子かな、

と一瞬、彼は本気で思ったが、

それはすぐに打ち消した。

今は明治大正ではなく令和年間である。

隠れ里のような集落が存在できる時代ではない。

「そのミカハヤビトさんか、お父さんだよね。

 何をしている人?」

「ホ~ヤンレ~ソ~」

少女は節をつけて言い、

両の掌でお椀のようなかたちを作った。

「その言葉って、どういう意味?」

「ホ~ヤンレ~ソ~ ホ~ヤンレ~ソ~」

少女は唱えながら右手で空を指さし、

「ヒコ!」

と、叫んだ。

彼は少女が指さした星を見上げた。

わし座のアルタイルは、

さっきよりも更に近くに見えた。

全天にある21の一等星の1つで、

日本では彦星の名で知られる。

「ホ~ヤンレ~ソ~ ホ~ヤンレ~ソ~」

少女は歌いながら、

両の掌で作ったお椀のようなかたちを捧げ上げていった。

彼はまたアルタイルに視線をやった。

アルタイルはおぼろ月のように輝きを膨張させて、

一条の光を放った。

「ホ~ヤンレ~ソ~!」

少女は甲高い声で叫んだ。

つかの間、全身を痙攣させた。

少女が両手で作ったお椀のようなかたちの中に、

ゴルフボールほどの黒曜石が入っていた。

彼はアルタイルを見上げた。

アルタイルは、

天の川の畔で他の星を圧して輝いていたが、

手が届きそうではなかった。

「これ、ヒコのうんちよ」

少女は胸の高さに捧げ持ってから、

「ホ~ヤンレ~ソ~」

と、かけ声のように言って谷へ放った。

黒曜石は半分、放物線を描いてからまっすぐ落下した。

他の黒曜石の輝きに紛れて輝いた。

「星野カワヤ」

少女は谷底を指さして小声で言った。

そうか、と彼はうなずいた。

この地域では、

黒曜石のことを通称、星糞(ほしくそ)と言った。

この地域だけでなく、

星糞という通称は、

かなり多くの地域で知られている。

星野カワヤは人名ではなく、

少女はこの谷のことを、

「星の厠(かわや)」

と、教えてくれたのである。

厠は今で言えばトイレのこと。

「おっさん、ぼんやりしてたらあかんで。

 ボケたらあかんやろ。途中まで案内したるわ」

少女は先に立って歩き出した。

彼は素直に少女に従った。

登山道の近くまできた。

「おっさん、あとは任したで」

少女は振り返って笑った。

お歯黒のような歯並びだった。

彼は少女とすれ違って、

登山道へ向かった。

「星野実鹿隼人(ほしのミカハヤビト)ではなく、

 星の御厠人、と言ったのか」

彼は独りごちた。

ミカハヤビト、またはミカハヤウドは、

古代の宮中で不浄の場所の清掃に従事した女性のことを指す。

少女は、自分のことを、

星の御厠人(ミカハヤビト)の子、

と名乗ったのである。

登山道に出て、

彼はハッと振り向いた。

少女の母、星の御厠人が少女と共に、

自分を見送っているような気がしたからだった。


誰もいなかった。

ただ、一陣の風がかなり猛々しい勢いで、

けもの道に覆いかぶさった丈の高い雑草を吹き分けながら、

遠ざかる確かな気配が見えた。

しばらく経って、

「ホ~ヤンレ~ソ~ ホ~ヤンレ~ソ~」

彼は口走るように歌いながら、

登山道を東へ歩き始めた。