「あなた、これ覚えている?」

私は勤務を終えて帰宅した夫に、

1通の郵便を見せた。

「忘れるものか。斗志矢(としや)は、あのとき、

 これが届くからね、と自慢そうに見せたんだ」

夫は着替えもしないでテーブルに着くと、

その郵便をとても大事なもののように手に取った。

横書き用の封筒で、

わが家の住所に、

宛名は[佐川登志彦さま、彩水さま]になっている。

登志彦(としひこ)は夫の名、

彩水(あやみ)は私の名である。

夫は裏を返した。

差出人は同じ住所で、

佐川斗志矢だった。

封印部分に、

両耳が垂れた犬のシールが貼られている。

「もしかしたら切手代が上がっているかもしれない、

 と思ったらしく、余分に貼ったみたいよ。

 切手なら買ってくるからね、と言ったのに、

 わざわざ自分のお小遣いで買ってきて貼ったのよ」

「きちんとした子だった。親にも迷惑をかけまい

 という気持ちがいじらしかったな」

夫は手紙を表に戻した。

「50円切手2枚か。今でもお釣りがくるよ」

夫はかすかに苦笑した。

斗志矢が自室から出てきて、

リビングルームに入ってきた。

食事後の皿や、

グラスを乗せたトレイを両手で捧げ持っている。

「あっ、いただくわ」

私は斗志矢からトレイを受け取ると、

ひとまず、

キッチンのカウンターに置いた。

「これ、覚えているな?」

夫は手紙を振ってみせた。

斗志矢は無言でうなずくと、

そのまま自室へ戻っていった。

「あなた、着替えてきたら。

 食事の用意ができているの」

「ああ」

夫は着替えに行くために立ち上がった。


私は、

テーブルに夕食を並べた。

気軽な格好で戻ってきた夫は、

手紙を開封した。

中身を取り出して広げた。

横書きの便箋2枚と、

便箋と同じ大きさにした画用紙だった。

画用紙には私と夫の似顔が描かれていた。

「似ているわ。特にあなたなんかそっくりよ」

色鉛筆を7,8色使って幼いながら、

大胆なタッチだった。

夫は私の顔を見てうなずいた。

「きみの特徴もよく捉えているな」

「懐かしいわ。斗志矢が小学4年の夏休みだったのね」

私は目を閉じて、

つかの間、快い回想に身も心も委ねた。

私と夫は斗志矢を連れて、

八ヶ岳連峰の山裾を縫うハイキングコースを歩いていた。

初心者のコースでも、まだ斗志矢にはきついかしら、

と案じたが、杞憂のようだった。

斗志矢はもう4,5キロ歩いたのに、

息を切らしていなかった。

「あそこだ」

夫が前方の右手を指さした。

斜面を削って台地にしたらしいところに、

2階建ての建物がある。

綠の屋根に、

外壁もカラフルに塗り分けられている。

絵本の中の洋館のように素敵だったが、

よく見ると古い形式の木造建物だとわかる。

廃校になった小学分校を転用して、

数年前から林間学校的な宿泊施設として

運営されている。

首都圏の小中学校が泊まりがけの課外活動などに、

よく利用しているという。

この宿泊施設が企画した

「お父さんお母さんと一緒の夏休み」というイベントに、

私は夫と相談して応募した。

子供は小学3年以上の小学生に限られた。

わが家も含めて、

抽選で当たった20家族80人弱が参加予定だった。

「あそこで2泊3日を過ごすんだ!」

斗志矢が嬉々とした声で叫んだ。

斗志矢にとって、

記憶に熱く深く刻まれた2泊3日になった。

昆虫採集、探鳥行、庭に出ての星座観察、

キャンプファイヤーとバーベキューの夕べなど、

保護者達にとっても忘れがたい夏休みになった。

「斗志矢は大柄だったし、はきはきした態度で

 積極的だったから5年、6年の子にも頼られていたな」

夫の言葉に、

私の回想は中断させられた。

「手紙を読むからな」


~お父さん、お母さんへ

 10年ごのぼくはもう大学生です。

 どんな大学生になっているかなあ。

 でも、そつぎょうしたら、

 海外でひんこんをなくすしごとにつきたいと思います。

 わが家は子どもがぼくしかいないし、

 お父さんお母さんにはさびしいおもいをさせるけれど、

 そのかわり、海外へいくまでは、

 お父さんお母さんといっぱい登山するからね。

 中学ではと書部、高校では登山部にはいるつもりだ。

 大学ではドイツ語をやる。

 ここで知りあった高木くんは、

 がいこうかんになるといっていたけれど、

 ずっと一生のともだちになれるとおもう。

 しゃかいに出るまでのぼくのゆめは、

 アルバイトでかせいだオカネで、

 お父さんお母さんを

 ミュンヘンへつれていくことだ。~


ククッと私は嗚咽をもらし、

あわてて手で口を押さえてこらえた。

「高木君はお父さんがミュンヘンの駐在員で、

 向こうから一家で里帰りかたがた

 参加したんだったな。斗志矢は高木君と

 意気投合して世界に視野を広げたんだろう」

夫はつかの間、

顔を上げて遠くを見るまなざしになった。

八ヶ岳中腹でのラストナイトは、

夕食後、保護者だけの交歓会が持たれて、

子育てのエピソードの暴露的失敗談が

続けざまに飛びだし、

とても楽しかった。

子ども達は10年後のお父さんお母さんに宛てた

手紙を書くので大変だったらしい。

きょうだい2人で参加したところも数組あったし、

年子のきょうだい3人で参加したところもひと組あった。

翌朝、

チェックアウト前に、

施設の人たちに指導されながら、

子ども達は庭のコナラの木の近くに

タイムカプセルを埋めた。

私達保護者は周りで埋め終わるまで見ていた。

「10年後の今日、タイムカプセルは私どもで掘り出し、

 お手紙は責任を持って投函させていただきます。

 もし、この間に転居などで

 住所が変わる場合はお知らせください」

そのときに斗志矢が書いた手紙が、

今日届いたのである。

夫は手紙の続きを読み始めた。


~大学をそつぎょうして、

 ぼくが海外へ行ってもさびしがらないでね。

 お父さんお母さん、おなじ地きゅうの上に

 いるんだからね。

 いまよりグローバルな世界になってるよ。

 お父さんお母さん、

 いまよりもっとなかよくしなよ~


「最後の行は、GOING MYWEY、だとよ。

 スペルはおれが教えたんだ」

夫が読み終えたとたん、

私の両眼はハラハラと涙をこぼした。

「あんなに活発な子だったのに・・・」

「斗志矢のことできみが涙を見せたのは、

 何年ぶりだろう」

「あなたの考えもあって、

 斗志矢のことは理解しているつもりよ。

 だから、悲しみの涙じゃないのよ」

「それはわかっている。この手紙を読んだら万感胸に迫るものな。

 斗志矢はまだ20歳だ。これからだよ、斗志矢の人生は。

 今があの状態なのは、中学2年からのあいつの選択なんだよ。

 そういうことなんだよ」

夫は私を励ますように言って続けた。

「そうそう、ついこないだ、中学1年時の担任の先生に、

 駅のホームでばったり会ったんだ」

「えっ」

私はティッシュで涙を拭いながら、

夫の顔を見た。

「斗志矢からひょっこりはがきがきたそうだ。

 勉強を始めました、とだけ書いてあったそうだ。

 あの先生が尽力して、中学の卒業証書を

 貰えたんだからな」

夫は似顔絵と便箋を封筒に戻した。

「何の勉強かしら?」

「これ、あっちのテーブルに何気に置いといたら。

  斗志矢は読みたいはずだよ。いや、

   必ず読む」

夫はソファーコーナーへ、

手紙を放り投げるような仕草をした。


翌日の夜、

私は夫の帰りを門の外で待った。

夫は私を認めると小走りで駆けてきた。

「あなた、斗志矢が通信制高校の願書を

 取りにいって少し前に戻ってきたのよ」

私は、

両手で夫のスーツの両袖を掴んで強く揺すった。

「そうか。これまでの選択を終えて、

 新しい選択を取るんだな」

夫は門灯に照らされた表情をはっきりと紅潮させた。