大瀬という姓の来客は、やや年齢不詳だった。

カジュアルな服装で、

ふさふさした髪もオレンジカラーに染めていた。

にこやかな表情で、

一見、30歳そこそこに見えた。

ただ、名刺の裏に略歴が印刷されており、

それに目を走らせて40代半ばだと推察できた。

国立大の医学部卒で、

10年あまり産婦人科医をやって、

7,8年前に大瀬理化学機器株式会社を設立していた。

私の秘書がコーヒーを出して姿を消すと、

大瀬は待っていましたとばかりに、

鞄から小さな機器をとりだして、

テーブルの中ほどに置いた。

長方形のボイスレコーダーに、

集音マイクを内蔵気味にとりつけたように見える。

「お手にとってお確かめください。

 こちらの社長さんなら機能はすぐにわかるはずです」

大瀬は笑みを絶やさずにすすめた。

「では、拝見」

私は、その機器を取り上げた。


私は携帯翻訳機だけを製作販売している

会社のオーナー社長だった。

携帯翻訳機を製造しているところは十指にあまるが、

20ヶ国語を聞いて日本語に翻訳し、

日本語で答えた言葉を翻訳して発声する、

と謳い文句ばかりが誇大で玩具同然のものも多い。

しかし、

我社の携帯翻訳機GENGOは、

英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語の4ヶ国語を、

同時翻訳に近い速さでイヤホーンを通し、

日本語で利用者に伝えることができる。

利用者が日本語で応じた言葉を、

相手の国の言語で正確に発音し相手に伝えることができた。

大卒の学歴の人の日常会話レベルの能力がある。

31歳で起業して6年。

今や我社は従業員数約200人の単品メーカーになった。


「とてもシンプルな構造ですね。何に使う機器ですか?」

私は操作せずに眺めただけでテーブルへ戻した。

「ちゃちな作りで申し訳ありません。ただし、

 性能は画期的です。産声翻訳機ですから」

大瀬は私の反応をどこか楽しむように、

笑みを浮かべたまま、やや上目遣いに私を見た。

「産声翻訳機というと、あのオギャア~の?」

「まさにそうです。この世に生を享けた赤ちゃんが、

 最初に挙げる声です、その産声です」

「産声の何を翻訳するんですか?」

私は珍しく興味を刺激された。

単品メーカーの我社に、

いろんな人が自分の発明工夫によるは機器を持ち込み、

製造販売の権利を買ってくれ、と言ってくる。

まず商品になりそうもない代物だった。

産声翻訳機もそうした代物に近いかもしれないが、

私の12歳年下の妻は来月は臨月だった。

生まれる我が子の産声にこもる感情を知ってみたい、

とふと気持ちをそそられたのだろうか。

「産声にはどういう意味があるかご存知ですか?

「羊水の中で命を育んできた胎児が明るい世界へ出てきて、

 思い切り声を張り上げて初めて呼吸する。産声はその証ですね」

「さすがGENGOの社長様です。満点の答えをなさる」

大瀬は私を持ち上げて言葉を継いだ。

「お腹の赤ちゃんは3ヶ月4ヶ月ぐらいから、

 お母さんの声を認識できるそうなんですね。

 五感の中で聴覚の発達はいち早くだそうですね。

 つまり、生れ出づるまでに、お母さんの声を

 繰り返し聴いているわけです。ところが、

 産道を通るときにはお馴染みのお母さんの声が遮断されます。

 不安に駆られるんでしょうね。産声はその不安の叫びでもある、

 と思いますよ。でも、産湯を使われた後、お母さんに渡される。

 お母さんは我が子を抱きしめて喜びの声を上げます。

 赤ちゃんはそのとき大安心するんです」

私は大瀬の言葉に黙って強くうなずいた。

産科の医師をしていただけあって、説得力があった。

「私は職務を利用して産声の収集ができました。徹底して

 声紋分析を行い、それをもとに赤ちゃんの産声にこもる

 感情の解析に成功しました」

笑みを絶やさず、何でもないことのように言った。

「具体的に言うと?」

「社長様、オギャア~、と叫んでいただけますか」

大瀬は産声翻訳機をオンにして、私に渡した。

「オギャア~、と叫べばいいんですね?」

私は集音マイクに向かって、

「オギャア~!」

と、叫んだ。

1・5秒ぐらい置いて、産声翻訳機は、

「これは産声ではありません」

と、明確に、しかも、私の声で否定した。

「これは4,5日前に生まれた男の子の産声です」

大瀬は小型のボイスレコーダー取り出してテーブルに置くと、

私が返した産声翻訳機を近づけた。

「オギャア~!!!」

ボイスレコーダーから元気のいい産声が飛び出した。

産声翻訳機がその産声をもとにしたような声で、

「生んでくれて有り難う」

と、明瞭に言った。

「いかがですか?」

大瀬はまた少し上目遣いに私を見た。

「無論、イヤホーンでも聴けますよ。怒りや、

 悲しみの産声もありますので、その翻訳を奥様に

 知られたくない旦那様もいるでしょうから」

「たとえば、どんな翻訳ですか?」

「企業秘密に踏み込むのでお聞かせしたくないんですが、

 では、もう1例だけお聴きください」

大瀬はボイスレコーダーを操作した。

「オギャア~~~」

憤りとか、辛さの感情がこもった産声だ、

と私は思った。

「こんなうちへ生まれてきて悲しい、辛い」

憤りが滲んだ声だった。

「いかがですか? 御社の他に1社に話し、

 ぜひうちで製作販売したい、と大乗り気のお返事でした」

私は腕組みをして考え込んだ。

なぜか大瀬のペースに乗せられて、

断り難いのである。

いや、むしろ、積極的に、

この機器を販売したがっていた。

我が子の産声の翻訳も聴きたかった。

「条件は?」

私は腕組みを解いて身を乗り出した。

「契約金5千万円。あとは売り上げの3%のロイヤリティーだけです。

 明日10時に、私はまたここへお邪魔します。そのときに、

 はっきりしたお返事をお聞かせください」


その夜、

若手経済人10人前後との会食を終えて、

私は帰宅した。

妻は大きなお腹を持てあました風情で、

モーツアルトを聴いて寛いでいた。

「あなたの帰宅のチャイムが鳴ったとたん、

 お腹の坊やが蹴ったのよ」

「ほんと、痛くなかった?」

「痛いというほどじゃなかったけれど、

 強い力だったわ」

「サッカーでもやるつもりかな」

私は中学、高校、大学とサッカー部で、

卒業してからも起業するまでは社会人サッカーをやっていた。

「あなた、疲れている?」

「えっ、何で?」

「あなたと知りあってから初めて見る表情よ。

 何ていうのかなあ、物の怪に取り憑かれたような」

「脅かすなよ」

私は笑って言ったつもりだったが、自分でもわかるほどに、

その声はかすれていた。

胎教にいいというモーツアルトの曲が終わると、

妻は大儀そうに立ち上がった。

「あなたも早く休んだほうがいいわよ」


妻が寝室に去ったあと、

私はしばらくぼんやりしていた。

いや、葛藤していた。

我が子の元気な産声の翻訳を聴きたいという思いと、

ふてくされた感情がこもっていたらどうしようという不安が、

二重らせんのようにねじれて、いつまでも続いた。

私は中学生時の反抗期では、

常に両親と口論したいた。

そのときの私のキメ台詞は、

「生んでくれなんて頼んじゃいねえぞ!」

だった。


翌朝、私は目覚めると、

自分の手が妻のお腹をなでていることに気づいた。

むくっ、むくっ、

とお腹の我が子は私の手を蹴ってきた。

(待ってろよ、オヤジ)

そう言っているようだった。

「ああ、待っているぞ」

私は思わず喜びにあふれた声で応じた。

「えっ、寝言?」

妻が目を覚ました。

一夜で私の精神状態は前を向いていた。

大瀬が持ち込んできた話は絶対拒絶だ、

と私は強く自分に言い聞かせた。


午前10時、秘書が現れて大瀬ではなく、

2人の私服警察官が私に面会したい、

と言って現れたことを告げた。

私はすぐに通すよう指示した。

2人の私服警察官は共に刑事だった。

「大瀬一馬という人をご存知ですね?」

年配のほうが訊いた。

「ええ。10時にここで会う約束をしていたのですが」

「今朝早く寝込みを襲って逮捕しました。詐欺容疑です」

「すると、産声翻訳機絡みで?」

「はい、2社から被害届が出た段階で、逮捕状を請求し

 身柄の確保に踏み切りました」

「大瀬の話はすべてウソだったのですね?」

「はい。ただの詐欺師ではないんですよ。

 高度の催眠術を使います」

若いほうが気負った声で言った。

「経緯をくわしくお聞かせ願いますか?」

年配のほうの言葉に黙ってうなずきながら、

私は安堵のため息をついた。