約1年ぶりに、

勝手を知った繁華街に入る。

すると、

呼吸が楽になる。


常にマスクをするようになって、

1年半があっという間に過ぎた。

でも、

JR中央沿線のK駅北口に広がる

この繁華街に入ると、

マスクをしていても

不思議に呼吸が楽になる。

水を得た魚のように、

ここに漂う空気が僕に合っているのだろう。


昼も夜も境目がないような繁華街だけど、

僕が今歩いている小路は

左右とも夜専門の小店が 連なっている。


右側のドアがワインカラーの店の少し手前で、

僕は足を止めた。

ドアの開閉に邪魔にならないように、

小さな立て看板が出されていた。

古めかしいデザインで、

葡萄酒場 阿珍

と6つの漢字が浮き彫りにされている。


阿珍はアッチンと読む。

アッチンは、

本名が阿津深雪というママの通称だ。


ドアが外側に開けられて、

そのアッチンが出てきた。

アッチンは、

クレオパトラカットの髪の額から

フェイスシールドをかけ、

その下にワインカラーのマスクをしていた。

切れ長の目は黒水晶を散りばめたように、

キラキラしている。

「15分ぐらいで帰るから中で待っていて。

 忘れていた買い物があるの」

アッチンは僕の返事を聞くこともなく、

小路を大股で歩いて、

アーケード街の通りへ出ていった。

(久々にきたというのに、

 妙な女だ)

僕は彼女の姿が見えなくなると、

店内へ入った。


7,8人がつけば満席になるカウンター。

左側の壁に棚のように、

立ち飲み用のカウンターも造り付けてある。

その壁に

〈感染予防のため立ち飲みはご遠慮ください〉

という張り紙。

初めてのときとまるで変わっていないな、

と思いながら

僕はカウンターの中ほどの席に腰を下ろした。

ソーシャルディスタンスだから、

このカウンターも3、4人か。

経営は苦しいだろうな、

と僕はほんの一瞬同情した。


僕は、

1昨年の春、

この街にある私大の経済学部を卒業して

ネット専門の広告会社に入った。

そして昨年、

まだ春には間がある頃にコロナ禍が始まった。


その第1波が下火になって、

この街の夜にも賑わいが

戻っていた頃のことだ。

アーケード街で、

大学の将棋部の後輩にばったり会った。

その後輩が連れていってくれた店が阿珍だった。

「先輩は凄いんだ。大学将棋の猛者だったんだ

 よ。

 学生名人も1期務めたんだから」

その後輩の言葉にアッチンは、

目を輝かせた。



確かに、

僕は学生将棋では強豪だった。

小学5年のときに、

プロ棋士の登竜門である

日本将棋連盟の奨励会の試験を受けたが、

それには落ちている。

しかし、

アマチュアとして腕は磨き続けて、

中学将棋、高校将棋でも

全国大会では常に上位入賞をはたしている。

大学に入り、

プロ2段の実力がある、

と指導にあたったプロ棋士の高段者から

折り紙をつけられた。

その流れで学生名人になり、

ゆくゆくはプロ編入試験という制度で

プロになることを目指した。

学生名人は1期だけで奪還された。

自分の実力の限界を悟ったわけではないが、

それ以来、

調子の波に乗れないまま

社会人になった。




「あら、そうなの。私の祖父は札幌で将棋会所を

 やっていたの。アマの7段だったけれど」

アッチンはさらに目を輝かせて言うと、

カウンターに両手を置いて僕に顔を近づけた。

マジマジと見つめられて、

僕は伏し目になった。

「そんな話、初めて聞いたぞ。将棋部の仲間ときて

 将棋の話で盛り上がったときも、私には関係ない、

 といった表情だったよ」

「そんなことを言ったら将棋好きの店になるでしょ。

 そういう色をつけたくなかったの。幅広い層の

 お客さんにきてほしいから」

僕が顔を上げると、

アッチンは僕を見つめたまま、

後輩と話していた。

「でも、今、先輩には話したじゃないか」

「話したかったからよ」

アッチンに見つめられて、

僕の瞳は痛痒いような感覚に襲われた。


それはきっと、

僕がアッチンの暗黙の意思を受け入れた

瞬間だったのだろう。


僕とアッチンは、

密かなデートを始めた。。

アッチンは樹林越しにI公園の池が見下ろせる

マンションの11階に住んでいた。

合鍵をもらったので、

アッチンの部屋へ入って待つようになった。

僕が店へ行くのは嫌なようだった。


アッチンは僕より2つ年上で、

M美大の油彩科を卒業していた。

阿珍をオープンしてからも絵は描き続けており、

ベランダに面した部屋は、

小さなアトリエになっていた。

阿珍が定休日の日の午後に訪れると、

彼女は抽象画を描いていた。

タッチは強烈だったが、

僕にはよく理解できなかった。


壁に40号ぐらいの油彩作品が掲げられていた。

高齢男性と思われる白髪の頭と、

地味な色のブルゾンを着た背中が

左寄りに大きく描かれていた。

その右肩越しに将棋盤と、

まだ10代らし正座した若者が描かれていた。

若者の視線は、

高齢男性の顔に向けられている。

3分の2ほど見える盤面の駒の配置を見ると、

中盤戦がたけなわの様子だった。


若者の顔をよく見直して、

僕はアアとかすれた声を出した。

宮前星比古。

1時期の僕にとって眩しい存在だった。

奨励会時代から天才と謳われ、

15歳で4段昇段をはたした。

その後、

23連勝を続け、

1つ2つのタイトルを奪うのは

時間の問題と見られた。


しかし、急に低迷し、

その頃の僕の耳には、

復調の気配さえ聞こえてこなかった。


宮前星比古の後を追うようにして、

史上最年少で4段に昇段し、

29連勝を続けた鬼才が登場した。

藤宮翔大だ。

現在は18歳にして2タイトルを保持し、

世間一般の人気も大変高い。

宮前星比古は、

その影に隠れてしまったのだろう。



「これ、宮前星比古さんじゃないか」

「そうよ」

アッチンは絵を見てすぐにうなずいた。

「背中を向けているのは、もう故人だけど祖父。

 星比古君にとっても祖父よ」

「そうか、アッチンとは姉弟…」

「ううん、いとこ同士よ」

アッチンは絵から僕に視線を変えた。

僕はその絵の左隅に、

アッチンのサインを確認してから、

アッチンを見た。

「ねえ、星比古君とここで対局しない?」

アッチンは意外なことを言った。

「復調気味なの。稽古台になってほしいの」

「復調していたら僕には歯が立たないよ」

少し謙遜した言い方だったかもしれない。

復調気味と言っても、

23連勝していた当時の棋力には程遠いだろう、

と判断したからだった。


1週間後の朝10時から、

3番勝負で行うことになった。

3番とも勝つ、と決めた。

アッチンの話では、

低迷の理由は心のリズムを崩したことだ、

という。

仮にも15歳で4段になった少年棋士だ。

まだ19歳だし、

このまま消えることはない。

その宮前星比古に3タテを食らわせれば、

アマながら僕も低迷から抜けられる。


僕はアマチュア仲間には、

もうプロの道は諦めたと言っているが、

本心ではなかった。

いつの日かプロ編入試験に合格してみせる、

とことあるごとに自分に言い聞かせていた。


宮前星比古との稽古将棋3番は、

その試金石になる。


そうして意気込んで対局したものの、

いや、詳細は言いたくない。

僕は最初の将棋の序盤段階で、

頭脳が混乱に陥り、

何をどのように指したのか

ほとんど覚えていないのだ。

「奨励会の3級にも勝てないと思いますよ」

3番終了後に、

眉をひそめながら言った宮前星比古の

言葉だけは鮮明に覚えていた。




翌日から、

僕は旅に出た。6つ7つの離島巡る旅だった。

北の島からはじめて、

陽気が寒くなるに従い南下し、

年が明けると、

沖永良部島、加計呂麻島を経て

徳之島を上がりの島にして、

今日の午後、ワンルームマンションの部屋に戻り、

一休みしてアッチンの店へまっすぐきて、

今、こうして留守番をしている。

東京へ戻って驚いたのは、

第何波だか知らないが、

まだコロナ禍が収束していないことだった。

訪れた島々で、

マスクをしているのは僕ぐらいだったのに。


アッチンが戻ってきた。

カウンターに入り、

すぐに料理の支度にかかった。

「ねえ、チャーハンこしらえるから、

 それを持って私の部屋へ行って食べてね」

何かアッチンの様子はおかしい。

「1年とちょっとぶりだけど、変わりはなかった?」

僕の問いに、

アッチンは包丁を置いて僕を見た。

「何を言ってるのよ。星比古君との

 将棋を終えて私のところから

 すぐ出てったじゃない。外で飲んで

 自分の部屋へ戻ると言ってさ」

「それいつのこと?」

「昨日の夜のことよ」

「まさか…」

「あなた、飲みすぎたんじゃない。大丈夫?」

「この1年、僕は離島巡りをしていたんだよ」

「まさか…」

今度はアッチンが同じことを呟いた。

マジマジと僕の顔を数秒見つめて、

大きくうなずいた。

「どうしたんだ?」

「最初の離島は北海道の奥尻島じゃなかった?

 その島の魚の加工場で4,5日バイトしなかった」

「したよ」

なるべく旅費を使わないよう、

アルバイトの働き口があれば何でもやった。

「あなたと星比古君の間で起きたことが、
  
   私には解ったみたいなの」

アッチンは、

本日休業、の木札をドアにかけにいった。

立て看板を店内に入れると、

スマホでどこかへ電話をかけた。

「星比古君、40分以内でここへこれるって」


宮前星比古を待つ間、

アッチンは奇妙なことを言った。

「昨日の3番勝負は凄かったわ」

「3番ともメチャクチャの将棋をした。

  僕をからかわないでよ」

「何言ってるの。3番とも貴方が先手で

 やる約束だったけど、最初の将棋で終盤は1手ごとに

 優勢劣勢が入れ替わる熱戦だったの。あなた

   が勝ったので2局目は星比古君が先手になり、

 雪辱したわ。これも観ていて

 手に汗を握る熱戦だったの」

僕はもう聞くだけにした。

「最後の将棋は貴方が千日手を放った。星比古君は

 緊張のあまり叫んだわ」

そのことで思い出したことがあった。

宮前星比古が叫んだとき、

僕も頭の芯に一瞬の激痛を覚えて叫んだのだ。

「千日手は指し直しが決まりだけど、

 私が1勝1敗1引き分けで終わりにさせたの」


宮前星比古が到着した。

そして、彼は僕が驚愕すべきことを話した。

「仰天しました。1番めも2番めも終盤の終盤まで矢野さんは、

 僕が矢野さんだったらこう指すという手を

 指し続けたんですよ。まるで僕の将棋頭脳が

 乗り移ったかのようでした」

矢野というのは僕の姓である。

「本当ですか?」

「最後の将棋では中盤の半ばで、僕はあえて

 普段なら絶対指さない手を指したんです。

 それに応じた矢野さんの手が千日手でした」

「奨励会の3級にも勝てない、と言われたんだけど」

「まさか。奨励会の3段でも敵わないでしょう、

 とは言いましたが」

「星比古君は昨夜あなたが帰った後、

 最近の記憶を喪失していることに気づいたの。

 ほぼ1年分ぐらいがすっぽり抜けているって。

 奥尻島のことは聞いていたので、ほぼ1年分の

 星比古君の記憶があなたの記憶に引っ越した、

 ということなのよ。離島の旅の記憶を

   みんな話してあげて」


驚いたことに、

僕が話して聞かせたた記憶は、

すべて宮前星比古が喪失していた記憶だった。

「しっかり記憶が戻りました。もう大丈夫です」

宮前星比古は嬉しそうに頭を下げた。

あれっ、と僕は素っ頓狂につぶやいた。

宮前星比古に戻った記憶が消えて、

昨夜アッチンのところを出ていってから、

今日ここへくるまでの記憶がつながった。

アッチンの店の定休日は土曜日で、

日曜日はいつもやっている。

僕は明日ごく普通に出社すればいい。


どういうことで、宮前星比古の

ほぼ1年分の記憶が僕に移ってきたのか。

そんなことは今はどうでもよかった。

日曜の夜をアッチン、宮前星比古と共に

素敵に過ごしたい、

と僕は思った。