その患者を診るのは

これで8回目になる。

島田玄也という48歳の男性で、

証券会社に勤めている。

役職者ながら週に2日出社するだけで、

あとの3日は在宅勤務だという。


奥さんと高校生の娘の3人家族だったが、

2年ほど前に奥さんは娘を連れて別居した。

そのまま離婚に至ったので、

現在はシングル生活をしている。


島田玄也は、

今、私の目の前にいる。

「困りましたねえ」

島田は首をひねるようにして苦笑した。

それは私の言うセリフだった。

これまでに心療内科医としては、

島田が訴える症状に照らして

考えうる検査はすべて行った。

「一応、これまでの診療の結果をおさらいしましょう」

「お願いします」

島田玄也は身を乗り出した。

その目が真っ直ぐ私を見た。

抜けるような青空という表現があるが、

彼の目は抜けるように澄んでいる。


私は、

島田玄也が初めて

私のクリニックを訪れた日のことを振り返った。


「鍵穴を覗くと、母がカンバスに向かって

 絵筆を奮っているんです」

島田玄也は抜けるように澄んだ目に、

困惑の色を滲ませて訴えた。

「お母さんは画家なんですか?」

「はい。知る人ぞ知る存在でしたが、

 絵はそこそこに売れて、画家として

 生活はきちっとできていました」

「鍵穴というのは何かの部屋の…」

「はい、我が家の2階は母のアトリエでした」

「仰ることが過去形ですが、お母さんはもう

 故人ということですか?」

「はい、15年ほど前に他界しました」


島田玄也の母が亡くなった年の11月に、

彼は結婚している。

2年前に離婚したから、

約13年間の結婚生活だった。

それは私にはあまり関係ないが、

鍵穴を覗くと

彼の故人の母が現れるようになったのは、

妻子と別居した直後から始まっている。


それに鍵穴と言っても、

谷崎潤一郎の小説「鍵」に出てくるような

向こう側が見える鍵穴ではない。

シリンダー錠の鍵穴だという。

覗くと、

亡き母が絵筆を振るっているので、

びっくりしてドアを開ける。

すると、誰もいない。

そのアトリエは、

ほとんど生前の母が使用していた

ままの状態にしてある。

大型のイーゼルに15号のカンバスがセットされている。

そのカンバスには描きかけの少年の絵。

絶筆ということになるが、

その少年お面影は島田玄也によく似ている。


以上を予備知識として得て、

その日は血液検査と他の簡単な検査をしただけで

診療を終えた。


初診としては時間をかけたほうで、

小1時間近くも彼の話を聴いている。

その限りでは疲労の蓄積など

外見で解る異常は認められず、

訴えた症状を抜きにすれば、

話をしていておかしなところもなかった。


それは検査結果を見ても変わらなかった。

普通に言えば五体健全で、

数値的に違和感を感じさせるものはなかった。


その後、

医大同期の仲間や、

先輩の意見も参考にしながら、

様々な検査を行ったが、

特に引っかかるものはなかった。


島田玄也が鍵穴を通して見ているものは、

いわゆる幻覚のうちの幻視である。

何かを別の何かと見間違える錯覚ではない。

例えば壁の黒いしみをゴキブリと見間違えるのではなく、

アトリエで絵筆を振るう、

実際には存在しない亡き母を見ている。


その幻覚の母をシリンダー錠の鍵穴から見る、

というところが特異と言えば特異である。


幻覚が出る病気はいろいろある。

ナルコレプシー、認知症、アルコール依存症、

統合失調症などだが、

検査を重ねるうちにどれも明確に否定された。


島田玄也の深層に至る検査でないと

突き止められない病気ではないか。

例えば、

若年性アルツハイマー症や、レピー小体型認知症で、

それぞれの症状が

まだ捉えにくい状態にあるのかも知れない、

という疑いを私は抱いた。


私は母校医大の病理で

アルツハイマー症を専門に研究している

先輩を訪れた。

島田玄也を伴ってのことだった。

そこでの検査の結果は、

若年性アルツハイマー症の可能性も、

レピー小体型認知症の可能性もほとんどない

というものだった。

「目がおかしいんじゃないか」

「そのほうの精密検査を受けたほうがいいですか?」

「そういうことじゃなくて…」

と、先輩は口を濁して笑った。

それが4、5日前のことだった。


その日以降、今日までの間、

私は診察室の奥にある検査室の

ドアのシリンダー錠の鍵穴を、

しばしば覗いてみた。

真っ暗で何も見えなかった。

こんなことを続けていたら、

第2の島田玄也になりそうだった。

今度を彼の最終の診察にしよう、と心に決めた。


そして、今日を迎えたのである。

「…ということで、当クリニックの専門のうちでは、

 あなたに何の異常も認められません。

「では、やはり目ということでしょうか。

 私の目はシリンダー錠の鍵穴という

 複雑な構造を自在に屈折して向こうを見通す

 特異な能力を持ったものなのでしょうか?」

島田玄也は私に顔を近づけて、

抜けるように澄んだ目で見つめながら訊いた。


「いいえ」

私はゆっくり首を振って続けた。

「あなたの目はただの節穴に過ぎません」