「油彩画から抜け出て後ろ姿を見せた
  貴婦人のようだ」
私は下の妹の沙知の後ろ姿を見送って、
ため息混じりに呟いた。
向かいにいる上の妹の久見が
私の視線を追ったときには、
沙知の姿は通路に消えていた。
「喪服が似合うんだよ、沙知は」
久見の隣席にいた父が
沙知の姿が見えないのに、
目を細めた。
「でも、もう26だ。そろそろ
 結婚してくれないとオールドミスになる」
ピンポーン、と叫んで割り箸で
釜飯の釜を叩きながら、
久見はこう続けた。
「それはとっくに死語よ。それに差別用語!」
「すまん」
父は頭をかいて謝った。
「恋せよ乙女、唇褪せぬまに、ですか、
 お父さん?」
「きみも古いな。さっきの貴婦人
  という言い方もそうだが」
父は皮肉を込めて笑った。
沙知がトイレをすませて戻ってきた。

今日は母の1周忌で墓参を終え、
4人で割烹風のソバ屋へ立ち寄り、
くつろいだところだった。

本当は私の妻と2人の息子たち、
それに久見の夫と一人娘もいたのだが、
墓参を終えたところで私たち4人だけ残った。

妻は2人の息子に今、
大評判のアニメ映画を観せるために、
久見の夫は風邪気味で、
1人娘を連れて先に帰った。
しかし、
父がごく自然に
そのように仕向けた感じもあった。

沙知は僕の隣の椅子に腰を下ろすなり、
飲みかけの赤ワインのグラスを手にとった。
その横顔に、
私は素早く視線を走らせた。
ピアスも黒真珠だった。
黒一色にまとめた装いに無理がなく、
きめ細かく白い横顔は目の端を
ほんのり淡く桜色に染めて、
兄の私の胸さえさえときめかせるほどだった。
飲み干した沙知のグラスに
父がボトルの赤ワインを注いで、
「好きな人はいるのかい?」
と、冗談めかして訊いたのを機に、
久見を交えて3人はにぎやかに会話を始めた。

私は11歳下の沙知が生まれる前の
我が家の状況を振り返っていた。
今、目の前にいる父は本当の父ではなかった。
本当の父は私が7歳のときに、
仕事中の事故で亡くなった。
9歳のとき、
母は6歳の久見を連れ子にした父と結婚した。
つまり、
今の父は私にとって義理の父に当たる。

同居した頃の久見は、
表情が暗く口数も少ない子だったが、
寂しさを滲ませたつぶらな瞳が可憐だった。
早生まれの小学1年で頭はよかった。


どういうものか、
私にはよくなついた。
私は地域の少年野球チームでピッチャーをやっており、
当時小学3年だったが、中学1年ぐらいに見る大人もいた。
早生まれのせいもあって、
当時の久見はちっちゃくて、
自分でもチビを意識していたから
寄らば大樹で私を頼りにしたのだろう。
悲しいことがあると、
私の胸に飛び込んできた。
それから泣くのだった。
私はその久見が愛しくてたまらず、
力を込めて抱きしめた。

久見がいじめられていることを知った。
私と久見が血のつながらない兄妹であることを、
小学5年のわんぱくグループに知られ、
出会うといつも卑猥な言葉を浴びせるという。
私は、
そのグループを通学路の途中にある原っぱに呼び出した。
5人でやってきた。
私は手にしていたバットを斜め後ろに構えた。
「束になってかかってこい。テメーからこいよ」
私はためらわず番長恪に視線を釘付けにした。
私の体もバットも微動だにしなかった。
私は本気だった。
そいつが踏み込んでくれば、
私の強い意志を込めて
バットは一閃するに違いない。
番長恪は青くなり両手をわななかせたが、
不意に後ろを見せて逃げ出した。
残りの4人はすぐにその後を追った。

「ちょっと、お宅のお兄ちゃんと久見ちゃん、
 何だかおかしいんじゃない」
そんな言い方で、
母に告げ口をする近所の主婦もいた。

「まだ2人とも子供だし、私は構わないんだけど、
 近所の目ってうるさいから」
「実家でね、久見なら喜んで預かると言っている。
 そうするか」
そんな父母の会話を立ち聞きしてから、
私は久見に対する自分の行動を自制するようになった。
私の胸に飛び込んでくる久見の体を、
そっと押しやったことがあった。
「お兄ちゃんは久見のこと嫌いになったの?」
久見は実に悲しそうな顔をした。

私のことを久見は素直に慕ってくれている。
1片の邪気もなく好きになってくれている。
私も久見と気持ちは同じだ、
と思っていた。
でも、
私は私の本心に、
わんぱくグループを原っぱに呼び出す頃には、
気づいていた。
私は久見に恋心を抱き始めていたのである。
それが初恋というものだとはまだ知らず、
しっかり自分の胸において抑えていたが。

私は久見が父の実家に預けられることを、
何としても阻止したかった。
1つの計画を思いついて久見に協力を頼んだ。
「いいかい、久見、大丈夫かな?」
「大丈夫」
久見はつぶらな瞳に聡明な輝きを浮かべて、
強く頷いた。

それから1年ちょっとして沙知が生まれた。
沙知は私とも久見とも血がつながっている。
久見の誕生とともに、
私が久見に抱いていた気持ちに変化が生じた。
血がつながっていないままなのに、
久見とは実の兄妹のように感じるようになった。


「お兄ちゃん、独りだけ何ぼんやりしているの。
 話に入ってきてよ」
久見が叱るように言った。
「うん」
私は頷いて空のグラスを取り上げた。
久見が赤ワインを注いでくれた。
「実は話があるんだ。みんな聞いてくれ」
父が不意に改まった口調になった。
私、久見、沙知は父に視線を集めた。
「これから話すことは、生前のお母さんも
 ぜひ機会があったら話しておかなければ、
 と言っていたことなんだよ」
父は小さく生唾を飲み込んだ。
「お父さんは子供には恵まれたと思っているよ。
 天国のお母さんも同じ思いなはずだよ」
「単刀直入に」
沙知が注意するように言った。
外資系の銀行で為替の仕事をしている。
回りくどいことが嫌いだった。
「久見は子育てをしながら、夫婦で大学の研究室で
 ゲノム解析の研究をしているし、靖成は進学高校の教師として
 学科の他に進学指導もしている」
靖成というのは私の名前だ。
「お父さん、単刀直入に」
沙知がまた注意した。
「お前が出生したことに関係があることなんだ」
父は少し気色ばんで沙知をにらんだ。

私たち3人は父の言葉を待った。
「私とお母さんは再婚する前に、子供は作らない
 と約束したんだよ。お互いに1人ずつ連れての再婚だし、
 靖成や、久見のためにもそのほうがいいかな、と」
「それで…」
沙知が話の先を促した。
「久見が言うんだよ。あたしの弟か、妹がほしいって。
 それはもうしつこいほど熱心に。お母さんも靖成から
 同じように繰り返し頼まれたらしい。新しい
 弟か妹がほしい、ってな」
「ふうん」
沙知が鼻を鳴らした。
「連れ子同士の再婚で、我が家には
微妙な隙間が生まれていた。沙知の誕生は、
その隙間をしっかり埋めてくれた」
その隙間に、
私は子供心に気づいていた。
私の久見に対する特別な感情は、
その隙間で生まれたものだった。
「靖成と久見の意図、特に康成のそれが
  何だったかは聞かないことにしよう。
 ただ、2人にはこのとおりだ」
父は最初に私に頭を下げ、
続いて横を向いて久見に頭を下げた。
「ヤダッ、私、お兄ちゃんとお姉ちゃんが頼まなきゃ
 生まれなかったんじゃない。もっと飲も飲も」
数滴分ぐらいしか残っていなかった自分のグラスの赤ワインを、
沙知は故意に奔放な姿勢で飲んだ。
私も父も久見も笑った。
この直後、
私は久見をみた。
久見も私を見たところだった。
私はごくかすかに頷いた。
久見も同じように頷いた。

あのとき、
久見は私の特別な感情に気づいていた、
と私は今、確信した。