トンネルを抜けると、
海側ではない右手は、
どの丘でも陽春の今を謳歌して
白い花が満開だった。

次の駅に母方の実家がある。
私が乗っている私鉄の特急は、
JR東海との相互乗り入れの
ローカル線を走っているが、
次の駅には止まらなかった。

私はその次の温泉で知られる
I駅で降り、
駅から至近のホテルにチェックインし、
キャリーバッグを預けただけで
すぐに車寄せからタクシーに乗った。

午後5時に近い時間だった。
母方の実家は
私より3つ上のいとこが後を継いでいる。
夕食の支度をして待っていてくれる。

久しぶりで会ういとこ夫婦は、
挨拶がすむと一瞬さり気なく
私の表情を観察した。
老いの様子を探ったのだろう。
それは私も同じで、
つかの間、
いとこ夫婦の表情に
前回会って以来の加齢の
痕跡を見ていた。
「孫が7人もいるのに、
 ここでは俺ら2人だけで」
「我が家も同じですよ。但し、外で暮らしている
 2人の息子夫婦に子は1人も
いませんがね」
それが開けたビールを注ぎあう
ときの会話だった。
積もる話を出しあって飲食しただけで、
3時間以上があっという間に経った。
タクシーを呼ぶから、
といういとこの手を振り払い、私は、
「駅までのんびり歩いて、
そこからタクシーを拾うので」
と、断った。

私は駅への道ではなく、
なだらかな上り坂の道を歩いていた。
母方の実家はミカン農家だった。
この道はそのミカン畑に通じている。
私は足を止めて、
思い切り上体を反らし空を見上げた。
快晴の夜で、
満天に星が散らばっていた。
中天よりやや北寄りに近いところで、
北斗七星は優しく瞬いていた。

12歳の今頃の時期、
そして、時間だけは夜更けに、
私はこの道を独りで歩いていた。

当時の私は、
今で言えば心のリズムを崩し、
ふさぎこんでいた。
母が心配して、
土曜日の午後から2泊3日で、
私を実家へ連れていってくれた。
次の朝、
叔父が浜へ連れていって、
地引網を引かせてくれた。

集落の男衆が大人も子供も総出で、
掛け声を合わせて地引網を引いた。
やがて、
網目もろとも海面を盛り上げて、
朝日にやや赤く銀鱗を染めた
ムロアジの大きな塊が見えてきた。

漁師から大バケツに山盛りの
分け前をもらい、
叔父はそれを軽々と提げ、
別の手で私を引いて家路に着いた。

昼過ぎ、
母は、
私を連れてミカン畑へ上った。
ミカンの花の匂いが濃く漂っていた。
後年のことだが、
ライラックの香りを嗅いで、
このときの匂いを思い出した。

ミカン畑の中を感慨深そうに歩いて、
母は囁くように言った。
「秋の終わりから収穫が始まるのね。
  学校が終わると、ここへ直接駆けつけて
 収穫を手伝ったの」

母の実家のミカン畑の外れから
やや窪地になっていて、
なおも行くと池があった。
坪数にしたら100坪あまりだろうか。
ごくかすかに波紋のように、
水面が揺れていた。
「底から水が湧いているのよ。喉が乾いたら
 ここへ飲みにきたの」
ほら、と母は両手で池の水をすくい、
私の口の前へ持ってきた。
白い花びらが1つ浮いていた。
私はごくごく飲んだ。
「おいしい?」
「うん、甘い」
「日照りの年の夏は、ここの水がこの地区の
 ミカン農家の用水になるのよ」

その夜中、母の実家の離れの間で、
私はハッと目を覚ました。
隣で母はスヤスヤ寝ていた。
私は寝床をそっと抜け出し、
運動靴を履いて外へ出た。

ミカン畑への道に入った。
雲1つなく満天の星は、
さんざめくように瞬いていた。
その頃は地上の明かりが少なく、
1部の星はすぐ真上に降りてきているようで、
空を向いて深呼吸をすれば、
いくつかは吸い込めそうだった。

私はミカン畑に入る前、
思いきり上体を仰け反らせて、
中天を見上げた。

北斗七星は、ここよ、
と教えるように明るく瞬いていた。
ミカン畑へ入って歩いていると、
流れ星が次々に夜空を走った。
流れ星と本物の星の区別は知っていたが、
それにしても降るようだった。

それも、意外と近くに。

私は降る星に導かれるように、
昼間きた池の畔にきていた。

私は自分の目を疑った。
大小の差は少しあるものの、
数百もの星が水中でゆったり動いていた。
浮き沈みを楽しんでいる星も、
水面を切りながら泳いで
白い花びらをかぶっている星もいた。

岸近くで私に見せつけるように、
ピチャッと跳ねてポチャッと潜る星もいた。

夢を見ているのか、
と私は拳骨で2つの目を強くこすった。
夢ではなかった。

私は、
上体をしなやかに反らせて中天を振り仰いだ。
北斗七星が柄杓の中の星を含めて、
すぐ周りの星とともに消えていた。

消えた跡は、
黒い長靴を蹴り上げたような
闇色の虚空になっていた。

私は池へ視線を戻した。
数百の星が一体になって泳いでいた。
そのかたちが魚に、
それもコイに似てきた。

実に美しい赤と金色の中間色のような
鱗におおわれた大きなコイだった。

星のコイは水面に口を出した。
その瞬間、
パチパチという乾いた音とともに、
水面から出た部分は星に戻って、
ス~ス~ッと天へ昇っていった。
大きなコイは、
体をどんどん水面から出した。
そのはしから、
パチパチパチパチと星に戻り、
ス~ス~ッ、ス~ス~ッと天へ昇っていく。

私はまた上体を反らせて空を振り仰いだ。
数百の星が一筋の帯になって、
長靴型の黒い虚空を目指していた。
やがて、
先陣がたどり着いて黒い虚空に収まり、
みるみるうちにすべての星が元の位置に収まった。

12歳時の夜更けに起きた出来事の
一部始終を思い起こしながら、
私はゆっくりと母の実家のミカン畑を抜けた。

窪地を少し降りて立ちすくんだ。

池は消えていた。
代わりに、
コンクリートで長方形に作られた水槽があって、
右端のほうで水を受ける音、
左端のほうで水を落とす音を立てていた。
右端のすぐ外側に湧水を汲み上げる装置があって、
1年中、湧水を水槽に流し込んでいるらしい。
左端の水槽の壁を少し低くしたところから、
流れ落ちる水は側溝が受けていた。

私は上体を反らせて北斗七星を仰いだ。
あの夜更けに振り仰いだ北斗七星は、
もっと北西へ移っていたはずで、
今のこれが限度の反らせ方では見えなかったろう。

「母ちゃん」
私は思わず、
94歳で天国へ旅立った母に呼びかけていた。
「あの夜の出来事は本当に起こったことだよね?」

(そうよ。あの出来事はあなたの宝物の思い出よ。
 今までも、これからもずっと)