夕食をすませて父が立ち上がった。
「じゃ、後は頼むよ」
僕はデザートのイチゴを口に入れながら、
「う、うん」
と、声を詰まらせてうなずいた。
母が亡くなってから、
休日の朝、昼、夕食と
木曜日の夕食は父が作る。
いろいろ用事ができるので、
あくまで原則だけど。

食事の後片付けは僕の役目だ。

大学の研究室勤務の父は、
木曜日が半日勤務だった。
今日がその木曜日だった。
「あっ、ちょっと」
書斎に向かう父を、
僕は慌てて呼び止めた。
「何だい?」
「健康保険証、出しといてくれる。明日、
  耳鼻科へ寄りたいんだ」
「どこか具合悪いのか?」
「鼻が少し詰まるんだ」
「そうか、解った」
父は健康保険証を用意してくれた。

僕は小学5年。
頭だけ少し早熟かな、と
父が小首を傾げたことがある。

母は子供時代に、
天才少女ピアニストとして
騒がれたことがあった。
父と結婚する頃は、
音大の普通の先生だった。

それでも、
実力は日本の女流では20位前後、
と父が僕に言ったことがある。

僕に手がかからなくなって、
自宅で弟子をとって教えていた。

小学3年の秋、
学校から帰ると、
母は階段下で血を流して死んでいた。
検視の結果は、
脳貧血を起こし真っ逆さまに階下へ落ちた。
打ち所が悪く、
ほぼ即死だったという。

それまでにも母は、
数回、脳貧血を起こしていた。

僕にとっては残酷なほど、
ショッキングな事件だった。


翌日、
僕は通学途中にある耳鼻科クリニックに寄り、
いろいろ検査をしてもらった。
1週間後に検査結果を訊きにいくことになり、
急いで登校した。

その日、
学校から帰ると、
ある予感がして2階へ上がった。
2階にはレッスン場と、
ピアノ以外の楽器室があった。

僕は防音されたレッスン場のドアへ近づいた。
ドアは特殊合板の分厚い造りだった。
やっぱり弾いている。
右耳をドアの合板に20センチほど近づけると、
旋律が明瞭に聴こえた。

母は個人的には
モーツァルトが好きだった。
ゼロ歳1歳の僕をおんぶしながら、
いつもモーツァルトを弾いていた。

そのことを記憶しているわけではない。
でも、
僕の幼い耳は
たっぷりモーツァルトを聴いていたはずだ。

今ドア越しに僕の耳に届いているのは、
ピアノソナタK.545ハ長調だ。

しばらく陶酔して聴き入って、
これもまたいつものように、
重いドアを開けた。

20畳あまりの洋室に、
いつも弾けるようになったグランドピアノと、
布カバーを下ろした普通のピアノが置かれている。

僕はグランドピアノへ歩いた。
今の今まで母がきていて、
弾いていたのだろうか。
自動ピアノなんかじゃないぞ。
今しがたまでドア越しに聴いていた
ピアノソナタは、
母が弾いていたものだと僕には解る。

無意識で華やいだタッチで弾く小節があって、
その母の癖は僕にしか聴き分けられないのだ。

僕はグランドピアノのそばで
3,40分立ち尽くしていた。
鍵盤が叩かれるところだけでも見たかった。
僕には見えない母のしなやかな指が
踊ってのことに違いない。

「どうしたんだ?」
不意に、父の声がした。
少し部屋に入って父が立っていた。
「お母さんのことを思い出して。
 ねえ、このグランドピアノ、
 どうしていつも開いているの?」
「そうしておけばね、お母さんが
 天国から下りてきて弾いてくれるかな、と思って」
父は瞳を悲しみで輝かせていた。

耳鼻科へ寄った。
「きみの耳鼻咽喉には、
 何の異常も認められないよ」
パソコンから目を離して、
高齢の域に入る医師は、
僕をまっすぐ見た。
「聴力が凄い。それも右のほうが特にだ。
 将来は音楽関係に進むといいよ」
「聴力がいいと幻聴も起こりやすいですか?」
「幻聴か。機能的には異状なしだから、
 そうなると精神科の領域だな」
医師は薄く笑いながら言った。


数日後、
僕は家からもっとも近い総合病院の
精神科を受診した。
「まだ小学生だろう。普通は親とくるもんだよ」
主治医は驚いたが、
それだけに興味を持ってくれて、
問診の意味もあってのことか、
充分に時間を取って話を聞いてくれた。
「幻聴はね、統合失調症ではよくあることだが、
 きみが統合失調症ではないことは200%確実だよ」
「じゃ、僕がずっと聴いてきた母の演奏は、
 幻聴じゃないということですか?」
「PTSDって解るかな?」
「心的外傷後ストレス障害です」
「まいったなあ、知りすぎだよ、きみ」
主治医は苦笑して、
「お母さんの事故死がきみの心に
 癒すことのできない傷を作ったのかなと思ったが、
 PTSDというほどのものじゃない。つまり、
 それに起因する幻聴は考えられない。
    きみは精神的には強いよ」
「じゃ、何なんでしょうか?」
「きみね、小学生はそんな風に拘らないで、
 よく学びよく遊んでごらん。難しいことを
 考え過ぎなんだよ。そうだ、今度、
 お父さんと一緒にお出で」
主治医はうるさそうに言って、
僕から視線をそらした。


僕は家へ帰ると、2階へ上がった。
レッスン室の特殊合板のドアにそっと近づいて、
右耳を澄ました。

聴こえる聴こえる。
弾いている弾いている。

ピアノ協奏曲第23番第2楽章だ。

心の奥から僕に対する深い愛情を表して
弾いてくれている。
この弾き方に関し、
そう僕は勝手に思いこんでいる。

このとき、ふっと、
初めて気づいたことがあった。
グランドピアノで弾かれている曲を
ドア越しに聴いているのではなくて、
そのドアが曲を奏でていることに。

僕は初めてドアに右耳を押しつけた。
その瞬間だけ、
ドアが本当に細かく振動していることを、
僕の右耳の鼓膜は捉えることができた。
でも、振動は右耳が触れた途端に止んでいた。

静かに右耳を離した。
ピアノ協奏曲第23番第2楽章の演奏が再開された。

そうか、
このドアは母の演奏を正確に覚えているのだ。
僕が近づくと
ごくかすかに振動して演奏を始める。
僕にしか聴こえない音量で。

それは母の遺志によるのだ。

僕は母の温もりに包まれた。

お母さ〜ん!