庭にほぼ楕円形の池がある。

池の水はいつも澄んでいる。


庭の外の低い崖地に湧き水があり、

それを池へ引いている。

池の水は排水溝を経て

湧き水が作る崖沿いのせせらぎへ戻される。


「お父さん、できたよ」

一人息子の哲佑が、

両手で灯籠舟を捧げ持つようにして

庭へ出てきた。

「ほう」

私は受け取って嘆声を上げた。

哲佑は小学5年になる。

学校生活にそれほど支障はないが、

多動性障害(ADHD)である。

自分が興味を持つもの以外には、

極端に無関心で協調性に欠ける。

いじめを受けやすいが、

幸いというか、

受けてもそのほうには鈍感で、

ケロリとしている、

「いじめを受けていると思わないためか、

いじめっ子になついちゃうんですよ。

いじめっ子もしょうがねえや、

って感じですね」

心配して妻に付き添って

授業参観に出席したとき、

担任の先生は苦笑して

私達夫婦に言った。


「実にいい出来栄えだ。帆に見立てた

灯篭の影絵風の絵柄もおもしろい。

お祖父ちゃんが見たら大喜びだろ」

私は灯篭舟を哲佑に返した。

哲佑は細工物に長じている。

好きなことだから、

人並み外れた集中力を発揮して

驚くほどに緻密に仕上げる。


哲佑は池の縁にかがんで、

灯籠舟をそっと水面に浮かべた。

「お祖父ちゃん、きてくれるかな」

哲佑のつぶやきに、

私は哲佑が祖父、

つまり、私の父を慕う気持ちの強さを

改めて思い知らされた。

哲佑の祖父は3年前の春に亡くなった。

生前は、

哲佑のもっとも強い理解者だった。

多動性障害による哲佑の

社会性に欠ける行動にも、

私や、妻の懸念をよそに、

「いいんだよ。あれは哲佑の個性なんだ。

うまく活かしていけばいいんだ」

と、目を細めた。

哲佑の細かい工作に向いた資質を

最初に見出したのも、その祖父だった。

哲佑の祖母、つまり、私の母は、

哲佑の生まれる1年前に、

急病で亡くなった。

それだけに、

よけい哲佑は祖父に傾斜したのだろう。


道で妻の乗った自転車が止まった。

我が家は長野県の山間部の集落にある。

平成年間に発達した比較的新しい集落で、

自転車で20分も乗れば

わりと繁華な街に着いた。

妻は自転車を引いて空を見上げながら、

庭へ入ってきた。

「そろそろ暮れるわね。

お迎え火を焚きましょう」


哲佑は、

池のそばでおがらを焚いた。

この役は哲佑の祖父の新盆のときから、

哲佑の役目になった。

例年のお盆なら、

東京から子供を2人連れて

私の妹夫婦が帰ってきて、

お盆明けまでいる。

妻の大学生の弟も泊まりがけできて、

結構、賑やかになる。

でも、コロナ禍の今年は、

我が家3人だけのお盆になる。

赤々と燃え上がった迎え火を、

親子3人で立って見つめた。

哲佑は何かを念じたようだった。

それからすぐに、

哲佑は池の縁に戻った。


すっかり夜になった。

「お祖父ちゃん、感染するからこれないのかな」

向こうの世界から帰ってくる

人には感染しないよ、

と私は言おうとしてやめた。

哲佑がお祖父ちゃんの

感染を案じての気持ちを大事にしたかった。

灯籠舟の灯籠の中に、

哲佑はロウソク立てを設けなかった。

お祖父ちゃんは、

ホタルに案内されてやってくる、

と信じているのだった。

湧き水による流れがあるので、

この辺りはホタルがたくさん出現する。

でも、初夏のことで、

このお盆の時期ではない。

しかし、

一昨年は迎え火を焚いて程なく、

数匹のホタルが飛んできて

灯籠舟の周りを舞い、

1匹は灯籠の紙に止まった。


そのときの哲佑の喜びようは、

常軌を逸したものだった。

昨年はこなかった。

どんなに悲しむかと思ったら、

「お祖父ちゃん、こんな熱帯夜に

戻っちゃ駄目だよ」

と灯籠舟にお説教してケロリとしていた。


「哲佑、そろそろお家の中へ入りましょうね」

妻に促されて、

哲佑は空を見上げて叫んだ。

「お祖父ちゃん、来年は大丈夫だからね!」


送り火を焚く日になった。

哲佑は毎晩、1時間ほど、

庭に浮かべた灯籠舟を見守ったが、

ホタルは飛んでこなかった。

夕刻、

私達親子3人は、

湧き水の流れの下流へ歩いた。

この辺りは灯籠流しの風習がない。

両手で灯籠舟を抱えた哲佑は、

「じゃ、僕はここで〜」

と、足を止めた。

私と妻は更に50メートルほど下流へ歩いて、

流れのそばの草むらを足で踏み固めた。

そのあとへ、

妻がおがらを燃えやすいように組んだ。

上流で哲佑が流した灯籠舟を、

私がここで引き上げ燃え上がった

おがらにくべる。

それがお祖父ちゃん亡き後の我が家の

送り火のしきたりだった。


おがらが燃え上がった。

「いいぞ〜う!」

私は上流に向かって叫んだ。

「流したぞ〜う!」

哲佑の叫び声が返り、

哲佑が流れに沿って駆けてくる。

半ズボンの私は靴と靴下を脱いで

流れに入った。

「わあっ!」

哲佑が駆けながら叫んだ。

「どうした!?」

「お祖父ちゃんが帰ってきたああ!」

哲佑の叫び声は喜びで燃えていた。


暗くなった水面を灯籠舟が滑ってきた。

私は我が目を疑った。

数匹のホタルが灯籠舟を守るように、

舞い従っていた。

ホタルが灯籠すれすれに飛ぶと、

影絵がくっきり浮かびあがった。

私は震える両手で灯籠舟を引き上げた。

「お祖父ちゃん、有り難う。

もう行っていいからね!」

すぐそばで、

哲佑の大声がした。

ホタルたちは別れ別れに飛び去っていく。

「お父さん、有り難う!」

私は声を震わせて叫んだ。

「無理して、ちょっとだけ帰ってきてくれたんだよ。

あれなら感染しないだろ」

哲佑が嬉しそうに妻に話しかけた。

「お父さん、有り難う!」

私はまた声を枯らして叫んだ。


哲佑以上に、私は狂喜していた。