私は出勤の支度を整えた。
改めて姿見に全身を写した。
よし、とうなずいて真横を写し、
顔だけ右へ向けた。

姿見には背筋をピンと伸ばした
私が写っている。
「よし」
今度は声に出して、
それからリビングへ移動して、
壁の時計を見た。
迎えの車が回される5分前だった。

私は先月の10日に満102歳を迎えた。
私のフルネームは水戸信介。
令和の財閥と謳われている
水戸ホールディングスの会長にして、
創業者である。
本体の水戸ホールディングスには、
直轄の子会社が11ある。
そのすべてで、
私は会長を務めている。
本体も含め12の会社に日替わりで
出勤するのが、
私の日課である。

チャイムが鳴った。
「お支度は如何でしょうか?」
肉声とまったく変わらない音質で、
高性能スピーカーが
若い女性の言葉を伝えた。
「ランディング広告の舞阪菜摘でございます」

迎えの車は9時きっかりに門前を出発した。
菜摘は24歳という年齢の割には、
手馴れていて、かつ、安全に運転する。
高級車の部類だが、国産車だった。
12社のどこも、
社用車は国産車と決まっていた。

車は自宅のある南阿佐ヶ谷から、
水戸ホールディングス本社ビルのある
虎ノ門に向かった。
ネット広告専門のランディング広告は、
その本社ビルに入っている。
運転している菜摘はややロン毛で、
いつのまにか
オレンジが混じった茶髪にしていた。
「いい感じに染まったね」
「有り難うございます。うちの秘書課は、
こういうカラーリングには厳しいんです」
「ほう、それでよく通ったね」
「はい、会長のお好みですので、と言いましたら、それでー」
「私の名を出したか。それでいい」
私は、ククク、と低い声で笑った。

私の日替わり出勤では、
どこの社も秘書課のうちで
活発にして明るい若い子を迎えに寄越す。
もう102歳だからどうこうという疚しい
野心はないが、そういう子たちから
若々しい息吹を吸収しているのだ。
「会長、お訊きしてよろしいですか?」
赤信号で車を止めると、
菜摘は物怖じしないで
運転席のミラーに写る私を見た。
「何だね」
「単身でのご生活は寂しくないですか?」
「楽しくて時間が足りないくらいだ。DVDで
BTS のライブや、アニメ映画を楽しんでいるからね。年若い友とオンラインの会食や、デートもやってるんだよ」
「凄いですね」
菜摘は、車を発進させた。
「人生100歳なんて言われているけれど、施設で余生を送ったり、寝たきり状態の100歳以上が大部分じゃないか。私のように働いている人は極めて少ないよ。まっ、老害と言われないよう口出しは控えているがね」
「うらやましいです。私の父はまだ60前ですが、がん闘病中です」
「治して100歳生かせなさい」
「はい、そのお言葉を伝えます」
「この歳になるとね、ピンコロだろうから
気楽なもんだ」
「何ですか、ピンコロって?」
「ピンピン生きて、あの世行きのときは
 苦しまずにコロリということさ」
「わあ、いいですね」
菜摘は明朗にハハハハハと笑った。

本社ビルに着いて、
私は一般社員と同じように
エレベーターに乗り、ランディング広告の
会長室のある階で下りた。
会長室に入ると、
すぐに、ランディング広告の社長ではなく、
本社の社長をしている孫の圭介が、
年若い女性を連れて現れた。
「今度、異動で秘書課にきた朝賀レオナです。
 明後日のお迎えは、この朝賀が-」
「よろしくお願いします」
レオナはほぼ直角に上体を曲げた。
圭介はレオナを帰すと、
私に数件の案件書類を渡した。
私はほとんど目を通さずに返した。
「きみは幾つになった、56歳か?」
「はい」
「きみの父親が50そこそこで早生したので、
私はきみに帝王教育を授けたつもりだ。
成長したよ。こういう案件は、
もう私に見せないでいい。これからは
きみが決済しなさい」
「期待に背かぬよう頑張ります」
圭介は全身で気負って声を震わせた。
「私は元気な姿を社員に見せられればいい。
会長があのように頑張っているから、と
励みになればね」
圭介が私を見て少し複雑な表情になった。
私はその表情の意味を即座に悟った。
「そうか。もう呆れて私を見ている
社員もいるのか」

日替わり出勤が一回りするのは早い。
3連休が入れば2週間半ですませられる。
そして、また菜摘の番が回ってきた。
私はいつもより早めに身支度を整えた。
そして、
お気に入りの籐椅子にかけて待った。

いつになく早くチャイムが鳴った。
私は立ち上がった。
「お支度は如何でございましょうか?」
ハスキーな声で、
菜摘のものではなかった。
「早いけど、誰かな?」
「お迎えにあがりました。
死でございます」

私はよろけた。
恐怖からではなかった。
くるべきものがやっときたか、
という安堵からだった。
「ピンピンと生きて-」
コロリと続けようとしたが、
声に出せないうちに、
私はス〜ゥと意識が遠くなった。