応接間に通すと、
季刊誌「芸術四季」の編集長の矢島は、
ソファーにかける前に
壁の絵を見てうなずいた。
「これが亡きお父様の遺作となった
 自画像ですね。後で写真に撮らせてください」
「どうぞ。矢島さんはこれを初めて
 ご覧になるわけですか?」
私の訊きようは空々しかったかもしれない。
「そうですよ。だって、遺作展でも
   未公開じゃないですか。故錦野画伯のフアンは、
 首を長くして公開を待っているんですから」
矢島はソファーにかけて続けた。
「あれから10年ですか。月日は駆け足で
 過ぎていきますね」

未来的幻想タッチの画で
若い層の心を掴んだ亡父錦野有三が、
生涯唯一の自画像を
アトリエに残して失踪したのは、
10年前の35度超えの猛暑の日だった。

その日、母と私と妹の3人は、
絵筆を振るうのに忙しい父をアトリエに残し、
2泊で伊豆の高原へ出かけて留守だった。

その間に、
父は謎の失踪を遂げていた。

いっとき、
その失踪は大きな話題になった。
浮いた噂の1つもなかった父の失踪は、
私たち家族にとっても、
キツネにつままれたような出来事だった。

ネットには
家族が共謀しての他殺説まで登場し、
それに影響されて警察も、
つかの間、
私たち家族に厳しい目を向けた。

しかし、家族間には何のトラブルもなく、
捜査員も最後には苦笑していた。

人の噂も何とやらで、
やがて父の話題は過去のものになった。
当時、大学院生だった私は、
芸術大学で近代日本絵画史を教えている。
高3だった妹は、
結婚して今は1児の母だった。

失踪して満7年を経過した後、
私は母や、妹と相談し、
父の失踪宣告の法的手続きをとった。

「当時、僕は駆け出しの編集部員でした。先生の
   スケッチ旅行に1回おつきあいをさせていただきました。
 先生のスケッチはとても写実的。それを元に描かれた作品は、
 まるで異星の光景になりました。凄い才能です。失踪された当時、
 49歳でしたか。ご健在なら、あ、いやー」
矢島は慌てて言い直した。
「今も、きっとどこかでご健在だ
   と思っていますが、こちらのアトリエで
   画業を続けておられたら、
   傑作を連発されたのではないでしょうか」
矢島は壁の自画像に目を凝らした。
私も一瞬、その自画像を振り返った。

20号ばかりの縦長の自画像で、
実に写実的に描かれている。
矢島は私に目を戻した。
「失踪されて1年ほど経った頃でしょうか。僕は先生と一緒に歩いた
 場所を独りで辿ったんです。その場所の背後に広がる樹林や、
 沢筋も遡って、かなり範囲を広げて探し回りました」
「おやおや、父を求めて、ですか?」
「もしかして、仙人化した先生に出会えないか、と」
「それだけ思われれば、父も本望でしょう」
私は苦笑を抑えられなかった。

次の芸術四季の冬季号で、
亡父の特集をやることになり、
矢島は亡父とのスケッチ旅行の
跡を辿る文章を自分で書きながら、
その関連の作品をカラーグラビアで特集する。

その目玉は未公開のまぼろしの自画像だという。

「取材はもうほとんど終わっていまして、
 自画像を撮らせていただけばすむようなものですが、
 1つ、よろしいですか?」
矢島は、右手の人差し指をまっすぐ立てた。
「どうぞ」
「ご子息様としては、お父様の失踪をどう思われていますか?」
「難しい質問ですね」
今度は明確に苦笑して、
私は視線を矢島から反らしながら話した。
「ひどい親父だと思いますよ。私たち家族のこともそうですが、
 後に残された人たちに迷惑がかかることに対し、
 一片の考慮もなしに姿を消しましたから」
「恨んでおられたんでしょうか?」
「初めのうちは・・・」
私は矢島に視線を戻して大きくうなずいた。
「でも、約束はきちんと果たしていたそうです」
「うちの芸術四季が依頼していたエッセイも、
 失踪される2,3日前に送られてきました」
「家族に借金も残したわけではないし、
 私たち家族はただ呆れた、今も呆れている、
 といったところでしょうか」
「今も呆れている・・・何となく、
 そのお気持ちは解ります」
矢島は、
横に置いたカメラバッグから、
世界最高級カメラとして定評のあるN社の
デジタルカメラを取り出した。
ちょっと点検してから、おもむろに立ち上がった。
私も立ち上がり、矢島のほうへ回った。
「先生はどこか別天地を見つけて、
 そこで活躍しているのかもしれませんね」
矢島はカメラを構えファインダーを覗いて、
今になって気づいたように言った。
「先生は確か49歳で失踪したんですよね。
 でも、自画像は老けていますね」
「先ずは撮ってください」
私はうながした。
矢島は続けざまにシャッター音を響かせた。

「あれ、先生、写ってないぞ!」
画面をチェックして、
矢島は素っ頓狂に叫んだ。
「真っ白い霧のようなものが写っているだけだ」
「高速シャッターで4通り撮ってみてください。
 1/250秒、1/500秒、1/1000秒、1/1500秒、
 の4通りでいいかな」
私は早口で指示した。
1/1000秒で撮ると、空を飛んでいるレシプロ機なら
プロペラが止まって写る。

矢島は何か切迫した気配を感じとったのか、
何も聞かずに4通りの高速シャッターを使い分けて、
撮りまくった。
そして、気が急いたような手つきで、
画面をチェックした。
「一体、何が起きたんだ!どれもこれも写ってないぞ。
 これって、どういうことなんですか?」
矢島は言っている途中から私に向いた。
「1500分の1秒で撮ったものをよく見直して」
私の言葉に、
矢島はあわてて見直した。
「あれっ、右端に先生の肩先だけが、
 ほんのちょこっと写っていますよ。
 これってどういうことなんですか?」

私は矢島に丁寧に説明した。
「父の姿は1/1500秒の高速で、
 やっと、その片鱗が捉えられるということです。
 つまり、父は誰か人がいるときだけ、
 ああして・・・」
私は自画像を指さした。
「私たちの前に自画像ということで現れます。
 ただ、カメラに撮られるのを絶対的に嫌がり、
 シャッターが切られた瞬間、横っ飛びで
 写らないように逃げるんです。むろん、
 あの額の向こうの世界の人として
   超能力的な高速で」
「じゃ、先生はあの額の向こうの別天地で
 健在なんですね。こっち側の人間が
 誰もいないときは、額から姿を消されて
 別天地で自由に活躍されている・・・」
「そうだと思いますよ」
矢島の解りのよさに満足して、
私は強くうなずいた。
「失踪した先生の秘密に、いつ気づかれたんですか?」

私はゆっくり答えた。
「失踪して3年目かな。親父は年々、
 歳をとっているんだって気づいて」