「あっ、またー」
クローゼットの左端のドアを開けて、
私は目を見張った。
その床に、
お気に入りの淡いオレンジ色の
ネクタイが落ちていた。

小さな仕事部屋の
本棚とクローゼットは、
壁の1面を半分に分けて
作りつけられている。

私は、
そのネクタイを拾いとった。
やはり、感触がおかしい。

どのようにおかしいのか。
それを一言で言えば、
使い始めて50年100年経っているもののように、
不可解なほど古びてしまっている。



まだ購入してから3年も経っていないのに。
気に入っていても、
着用した回数は多くて30回だろう。

ネクタイを愛する私は、
着用しないものを、
ネクタイ掛けにただ掛けておくことはしなかった。

掛けたものには等しく愛着を持っている。
それだけに、数は多いときでも20本に満たない。

私は、
シルクのネクタイを左手に掛けて
親指と人差し指でおさえ、
右手で軽く引っ張った。
ズルズルン
と濁った音を発しながら、
シルクのネクタイは崩れるように千切れた。

このようなネクタイの最期を、
私はもう6,7回看取った。

私は千切れたシルクのネクタイを、
惜別の念を込めて屑箱に捨てた。

「あなた」
という声と共にドアが開けられて、
芳深が入ってきた。
「あら、まだネクタイを締めないでいたの。
 ちょうどよかったわ。これ・・・」
芳深は、
右手にしていたネクタイを両手で広げた。
素材は加賀友禅で、
青い波間に躍りあがるシャチを絵柄にして、
3分の1ほど裏に隠して派手過ぎないようにしている。
「昨日、仕上がったの。どうかしら?」
「いいじゃないか。気に入ったよ」
ネクタイでは初めて芳深がデザインしたものになる。
私はお世辞抜きで気に入った。

鏡を見ながら、そのネクタイを首に絞めた。
私は加賀友禅の触感に満足して大きく息を吐いた。
このとき、
私のどのネクタイも、
閉め具合を少しゆるめに調節してくれる。
私ではなく、ネクタイが、だ。

愛着を持って着用しているうちに、
ネクタイはそれぞれに息吹きを持ってくる。
そうして、私とネクタイの間に、
あうんの呼吸が生まれる。

新参者の芳深デザインのこのネクタイには、
まだ息吹きは生まれていない。
キュッと締めたら、
なおも締めあげてきた。
おいおい、と声を出さずにたしなめて、
私は少しゆるめた。

芳深が私の後ろへ回り、
私の両肩にそっと両手を置いて
鏡の中の私を見た。
「お似合いだわ。とっても素敵」
芳深は私の右肩に右の頬をつけて目を閉じた。

私が芳深と結婚して5年目に入っていた。
まだ子供はいない。
私は大学の卒業を翌春に控えた年の瀬に、
早めの卒業旅行に旅立った。
行き先は金沢、能登。
そして、一人旅。

察しのいい人ならピンとくる。
実質は傷心の旅だった。

たまたま当たったことだったが、
金沢で浅野川べりを歩いていたら、
友禅流しに出会った。

全体の色調が淡い煉瓦色のもの。
白絹色の地に深紅色の花を浮かせたもの。
二筋の加賀友禅の模様が、
艶やかな鱗を競う大蛇のように、
ゆるやかな流れに乗って
誇らしげに身を揺らす。

長いこと見ていて飽きなかった。
「バッグを落としていますよ」
突然、声をかけられ我に返った。
「あっ、ああっ、有り難う」
私はドギマギしながら礼を言い、
肩から知らずズリ落ちていた
バッグを拾いあげた。

髪をショートにして、
紫色のカウチンのセーターを着て、
洗いざらしでやや白ずんだ
ジーンズを履いていた。

ほどほどに長身で、
脚はジーンズが歓喜しそうに
伸びやかだった。
「あなたは運がいいですよ。ほらー」
彼女は少し上流の橋へ手を振った。
「観光客は数えるほどでしょ。あなたと同じで
 たまたまなんですよ。
 今はこの川で友禅流しをする職人さんはほんの数人。
 いつ流すかもわからないんです」
 彼女はまっすぐ私を見て、
「お決まりの旅ですか?」
と、清々しい無遠慮さで訊いた。
私の瞳の奥から、
何かを掬いとったのだろう。
それが芳深だった。
「じゃ、加賀友禅を目当てにくる
  観光客はどうするんですか?」
「加賀友禅の団地へ行けば、
  人工川でやっていますよ」

私と彼女はーいや、長い話はよそう。
要するに、
それが出会いで、
私と彼女は結婚に至った。

彼女の家は、
加賀友禅を素材に袋物を作っており、
彼女は地元の美大を卒業し、
家業を手伝い
袋物のデザインをしていた。
年齢は私より2つ上。

私の卒業を待って私達は結婚したが、
芳深は傷心の私に強く惹かれたらしい。
それとーああ、これは後で話そう。

不可解なことが続いている。
私は都心のネット証券勤務で、
週2回はテレワークで
3回出勤していた。

私は芳深デザインの
ネクタイを着用して出勤して、
帰宅した日、
そのネクタイをネクタイ掛けの
いちばん奥へ掛けた。
それがしきたりだった。

今は17、8本あるネクタイは、
いつのまにか
加賀友禅のものばかりになった。
それもすべて芳深の実家から
送られてきたもので占められている。

それ以外のものは、
全部、粛清、
そう、加賀友禅のネクタイ群に
粛清されたのだ。
この前のシルクのものが
最後の生き残りだった。

次の出勤日に、
ネクタイ掛けを見ると、
いちばん手前にあったネクタイが落ち、
代わりに芳深デザインのネクタイが、
さあ締めてください、
と言わんばかりに陣取っていた。

下に落ちたネクタイを拾って
首に締めようとしたら、
崩壊するように
2箇所で千切れて床へ落ちた。

ただ落ちていたのなら、
自分がデザインしたものを
常に優先して貰いたくて、
芳深がやったことと疑ったかもしれない。

しかし、
落ちていたネクタイは、
ただのなきがらに過ぎなかった。

私のネクタイ掛けに、
加賀友禅のものが進出する前は、
私とネクタイたちの関係には
あうんの呼吸があった。

着用するたびに、
ネクタイは息吹きを豊かにして、
私に元気を与えてくれた。

でも、今は違う。
加賀友禅のネクタイたちは、
あえて生命力と言っておくが、
それに富んでいた。

私の愛をほしがり、
着用の順番を競いながらも、
ネクタイたちは共通して、
私に対する得体の知れない
底意を秘めていた。

そして、
芳深初デザインという意味で、
最強のネクタイがやってきて、
同族の粛清を始めた。

一体、これからどうなる?
私は漠然としているがゆえに、
混沌とした恐怖に襲われた。



ああ、
と、クローゼットを開けて、
私は恐怖まじりのため息をついた。

この10日ほど、
出勤日の朝は決まって
加賀友禅のネクタイのなきがらが落ちていた。
そして、
ネクタイ掛けのいちばん手前には、
芳深デザインのものが
常にこれ見よがしに掛かっていた。
私はいつも
そのネクタイをいちばん奥に掛けて、
2番手のネクタイを着用した。

すると、
次の出勤日には、
そのネクタイがなきがらになって
下へ落とされていた。
むろん、
いちばん前には芳深デザインの
ネクタイがきていた。

何と今朝は、
2本のネクタイがなきがらになって落ちていた。

「お前、狂暴に過ぎないか!」
私は芳深デザインのネクタイを掴みとって、
奥の床へ投げつけた。

錯覚ではないか。
芳深デザインのネクタイは、
床に落ちずにヒラ~リと上へ翻り、
ネクタイ掛けのいちばん奥に自分で掛かった。

私は、
自分の心がかなり疲労していることを自覚した。

その夜、
私はノーネクタイで帰宅した。
朝、着用したネクタイは、
なきがらにされるのに忍びなく、
会社の自分の机の引き出しにしまっていた。

芳深はダイニングテーブルで待っていた。
「遅かったのね。飲んできたの?」
私は黙ってうなずいた。
「誰と?」
芳深は、
浅野川の川べりで出合ったときと同じ目で、
私を見た。
私の瞳の奥を掬いとるような、
あの目だった。
「会社の・・・」
私が口ごもると、芳深は、
「もういいわ」
と、言ってミステリアスな笑いを浮かべた。
瞳だけで笑い、
表情は笑っていなかった。
「あなた、会社近くの
 心療内科にかかったでしょ?」
「ああ、1回だけな。なぜ、知っているんだ?」
 私は狼狽して訊き返した。
「あの並びのBビルに(加賀友禅を世界に
 広める会)が入っているの。女子高時代の
 同級生が勤めているの。そのクリニックへ
 通院していて待合室であなたを見たのよ。
 あなたは知らないでしょうけれど、
 向こうはあなたの顔を知っているの。
 結婚前後に2度ほどあなたとツーショットの
 画像を送ったことがあるから」
「そういうことか」
「4年ぶりぐらいの突然のメールで驚いたわ」

加賀友禅ではない最後のネクタイが
なきがらにされてから、
私は自分の心の変調を疑い、
そのクリニックの看板を目にして、
ふらふらした気持ちで受診した。
医師は多くの問診を行い、
簡単な検査をして再診日を告げた。
「うつ病1歩手前ではあるけれど、
 数日静養すれば大丈夫です。
 ただ、あなたは自責の念が強すぎるね」
補足するように続けた医師の言葉に安心して、
私は再診日をスルーしていた。

芳深には、
その経緯と事実をありのままに話した。

そのあと、私のネクタイに起こった
異変も順を追ってすべて打ち明けた。
「大体は察していたわ。あなたが言う
 なきがらを屑入れで何度も見ていたから」
芳深は顔を斜めに上げ、
虚空をにらむようにして続けた。
「あなたの話を信ずるわ。加賀友禅には
 職人の魂がこもるの。それを素材に
 他の作品を作る職人の魂も、
 その作品にこもると思うわ。特別の
  因縁がある場合にはことさらにね」
芳深は顔を下げて私を見た。
私は反射的にその視線を逸らし、
さっき芳深が淹れてくれたコーヒーを飲んだ。
とっくに冷めていた。
私の瞳の奥を掬いとるような
芳深の視線は、
きっといつも私の本心を捉えている。

「1昨日、実家の母から高山さんの
  結婚が決まったってメールがきたの」
高山の名が出たとき、
私の心の奥が軋むように疼いた。
これは自責の疼きだろうか。

高山は芳深の実家の工房の
副工房長を務めている。
芳深の両親はその人柄を見込んで、
ゆくゆくは芳深と一緒にさせて
工房を継がせるつもりでいた。
芳深は恋愛感情は抱けなかったものの、
一緒になること自体には異存がなかった
という。

私の出現で、
その青写真はすべてご破算になった。

「ねえ、私はこう思うのよ。
 あなたのクローゼットのネクタイ掛け
 に掛かっていた加賀友禅のネクタイには、
 確かに人の魂がこもり、ある種のいのちを
 持ってしまった。怨念を宿したいのちをね」
芳深も冷めたコーヒーを飲んで、
一息入れた。
でも、すぐに話を続けた。
「あなたはそれを高山さんの怨念だ、
 と思っているでしょ?」
私は曖昧にうなずいた。
「違うのよ。あなたの思い込みに
 端を発したあなたの強烈な自責の念を、
 加賀友禅のネクタイたちは、
 いのちとして宿してしまったのよ。
 続けざまに異変を起こして、
 あなたを責め立てていたの」
フ〜ッと私は深いため息をついた。
私の心にあった、
私も気づかなかった間隙を、
芳深の言葉は、
一気に埋めたのかもしれない。

芳深は言葉を足していく。
「私ね。今日、私がデザインしたもの以外、
 となると、高山さんの作品である
 他のすべてのネクタイということ。それをすべて捨てたわ。
 そのほうがあなたもスッキリするでしょ」
私は黙ってうなずいた。
「その代わり、今日送られてきた
 2本の新作を掛けておいたわ。
 結婚が決まってからの作品だって。
 あなたの思い込み通りだったとしても、
 喜びいっぱいの作品だから、
 もう異変を起こさないはずよ」
「うん、来週の初出勤日に締めていくよ」
「明日から3連休ね。土日は静養を心がけてさ。
 最終日は外で食事しない?」
芳深はとても晴れやかな表情になった。

寝る前、
仕事部屋に入り、
クローゼットのネクタイ掛けを点検した。
手前に芳深デザインのもの、
それに続いて高山新作の2本が
従う感じで掛かっていた。
危うい平和を感じた。

芳深デザインのものが
高山作品のものを次々に
なきがらにしていったのはなぜなのか。
私を守るためか、それともー
私は思考を止めて仕事部屋を出た。

寝室に入ると、
すでに芳深はベッドに横になっていた。
「私ねえ、今の今まで浅野川の川べりで、
 あなたと出会ったときのことを
 思い出していたの。私の一生のすべてが
 あの1コマに凝集されていたのね。
 灰になっても忘れないわ」
私の心は、
今の芳深の言葉の重みを
支えられるだろうか。
私はその思いを消すように、
寝室の明かりを消した。

心身を休ませることを旨に、
土日の2日間をほぼStayHomeで過ごし、
2時間ほどを芳深と連れ立っての散策にあてた。
郊外の住宅地は少し歩いただけで、
いろいろな発見があった。
名刹という感じでもないのに、
通りがかりの寺に歴史で習った人物の墓があったり、
住宅街の真っただ中に地域が伝えてきた民具の
展示館があった。
展示館は小規模だったが、
灰吹き、へっつい、千両箱のような手文庫、
庄屋の家に残された家計簿などを見ていくうちに、
私は自分の心がやんわり癒されていくのを意識した。

3連休最後の月曜日、
芳深はランチ会を提案した。
「東京であなたと初デートした日に行った、
 瓦屋根のレストランがあるでしょう。
 実はあそこを予約してあるの。12時30分からだけど、
 私は寄るところがあるので先に出るわ。
 現地集合でいい?」
「いいよ。5,6分前に入っている」
「1つ、お願いがあるの。スーツでなくていいから、
 私デザインの、あのネクタイをしてきて。きっとよ」
芳深はキラッ黒い瞳を光らせて私を見つめた。

時間を見計らって、
私はごく淡いベージュ色のシャツを着て、
芳深デザインのネクタイを締め、
黄色いジャケット、黒い皮のパンツ
といういでたちで自宅を後にした。
ランチ会のレストランは、
JR中央線で下り電車に乗って
2つ目の駅の近くにあった。

その駅に着く少し前に、
私はネクタイをゆるめてから締め直した。
すると、
ネクタイはキュッ、キュッ、と
私の首を締めあげてきた。
私は驚いて、
左手でネクタイの結び目を掴んで
締めあげられないようにした。
やはり、と思った。
下車駅のホームでいったんネクタイを大きくゆるめた。
それから、
スマホを取り出し、
私に傷心の旅をさせた女性に
別れのメールを送った。
彼女とは先月の始めに、偶然、再会した。
その日を別にして、2回、会った。
そのうちの1回は、ノーネクタイで帰宅した日だった。
飲食をして別れるだけの清い逢瀬だった。
それでも、
私には素晴らしい時間になった。
そして、別れてすぐに強い自責の念に襲われた。
今日もディナーを約束していた。

でも、
ついさっき、
断腸の思いで送ったメールを悔やむ気持ちはなかった。
このあと、
私は晴れやかな気持ちになった。
駅の洗面所でネクタイを、
そう、芳深デザインのネクタイを、
心ゆくまで締め直した。

スマホが振動したのでチェックした。
〈私もそれがよいと思います。いつまでもお幸せに〉
短い返信に気遣いを感じた。


その店は土蔵を残し、
母屋をレストランに改造したところで、
庭に面した個室に通された。
10分近く早く着いたのに、
芳深はすでに庭を背に着席して待っていた。
「あのときは私が庭をよく見えるよう、
 あなたがこの席へ着いたわ。今日はあなたがゲスト。
 景色を楽しんでね」
芝生の庭の20メートルほど先から崖が始まり、
今は殆どが住宅地の多摩川北岸一帯が遠望できた。
庭先の崖はいわゆる国分寺崖線で、
崖下をはけの道が通っている。
私が着席すると、
芳深は床に置いていた風呂敷包みをテーブルへ移した。
民芸調の風呂敷だった。
「風呂敷は駅の近くの民芸店で買ったものだけど、
 中身は私のプレゼントよ」
芳深は手早く風呂敷をほどくと、
ハイと私の前へ押し出した。
私は取り上げた。
私好みのショルダーバッグで、
袋本体は染めの違う幾つもの加賀友禅を使い、
幽玄な趣に近未来的な雰囲気をこもらせている。
ディナーの約束が生きていたら、
その席で、きっと、これがポーンと跳ねて、
彼女の顔面をボインと叩くのかなあ、
と私はくだらぬ思いに捉われながら、
ショルダーバッグをなで続けた。
「気に入ってくれて嬉しいわ。それ、
 渾身の力を込めて作ったから」
芳深は歯を見せて弾んだ声で笑った。

芳深がデザインした加賀友禅のネクタイに、
魂魄として込めたものは、
異常に強い独占欲だった。
邪魔ものは必ず排するというのが、
いま私が締めているネクタイのコンセプト、
つまり、いのちなのだろう。

今更、その独占欲から逃れる術はなかった。


私の一生は、
あの日あのとき、
浅野川の川べりで芳深と出会った一瞬に、
凝集されてしまったに違いない。