「俺、バツイチになるからな」
俺の部屋に入るなり、
河上龍馬は叫ぶように言った。
「まあ座れよ」
俺は向かいの椅子を手で示した。
4人がけのテーブルを置いただけで、
1DKの俺の部屋のDKは、
破裂しそうになる。
ドスッ
ガッチリした河上が
勢いよく腰を下ろしたので、
椅子は悲鳴をあげた。
「未湖さんと、何があったんだよ?」
「数日前に未湖が出ていき、
 昨日は俺が出て、あの限界集落は無人になった」
河上は俺の質問にはまともに答えず、
勝手な言葉を返してきた。

俺と河上は大学が同期だけれど、
俺は中退して職をいくつか転々とした末に、
ネット利用の便利屋を始めた。
バイクで1時間以内で行けるところ、
バイクで持ち運び可能なもの、
と限定したのがよかったのか、
2,3か月で軌道に乗った。

食料品や、雑貨類などの
買い物の代行もやれば、
手先が器用なので簡単な大工仕事や、
器物の修理も請け負う。

短期でうまく軌道に乗れたのは、
日本では今年の晩春に完全終息したが、
5年弱にわたり11波まであって、
日本全国を混乱と恐怖に陥れた
新型オビロウイルス禍の影響も大きかった。

ネットによる営業にこだわったのが功を奏し、
30代40代の単身者や、
子供が園児、小、中学生の主婦層に受けた。
オビロウイルス禍の終息後も、
売り上げは落ちずに定着している。

俺1人でやっているチッポケな事業だが、
隙間ビジネスを当てたってことだろうか。

「ネットでお前の店を見させてもらったが、
 葬式まで請け負ってるのか?」
「葬式はただの取次だよ」
俺は苦笑した。
「踏み台が好評だってな」
「半端な板材を買ってきてな、注文で作ってる。
 画像を載せたら途切れなく注文があるんだ」
「昭和の踏み台、っていう命名がいいじゃないか。
 レトロでオシャレな感じだ」
「ありがとう」
俺は礼を言ってから訊いた。
「お前のほうはどうなんだ?」
河上は、
大学を出て営林署勤務だった。
この前、
あったときと同じなら、
N県F町の分署に在籍しているはずだ。

1年半ほど前、
オビロウイルスの第8波が収まった頃、
河上は未湖という
まだ20歳前の子をここへ連れてきて、
「新妻だ」
と、紹介した。

「籍は昨日入れた。今日はこのあとF町の
 蛇我縄へ行くよ」
「ジャガナワ、何だ、それ? ジャヤガイモの農園かよ」
「F町の北部の山間を行くと鬼屋敷という
 個数21戸の集落がある。21戸でも
 限界集落じゃないぞ。鬼屋敷の2キロほど手前に
 小さな谷筋への入り口があって、その谷筋のどん詰まりに戸数8の限界集落がある」
「それがジャガナワという集落か?」
「そうだ。1戸、空き家があって、
 それが俺達の新居になる。俺達2人を入れて
 住民10人の限界集落ってことだ」
河上は新妻の背中をなでながら、
少し照れた笑いを浮かべた。
「お前の仕事はどうなんの?」
 物好きな野郎だ、と思いながら、
 俺は気になって訊いた。
「蛇我縄の向背に広がる山林が
 俺の担当現場だよ。F町の分署へ出勤するのは、
 週1でいいんだ。後は在宅勤務になる」
「山奥のテレワークてわけか?」
俺の言葉に、新妻の未湖は、
金属質の声でけたたましく笑った。
それまでは初対面時に、
ピョコンと頭を下げただけだったのに。

河上と未湖は、
慌ただしく帰っていった。
いや、限界集落の新居へ旅立っていった。

それから何の音さたもなく、
約1年半ぶりに、
河上は不意にここへ現れた。
そのとき、俺は、
反射的に鬼屋敷で起きた事件を思い出していた。
「未湖さんと何で別れたんだ?
 お似合いだったのによ」
「まっ、順序だって話していくよ。
 少し長い話になるからな」
河上は、ショルダーバッグから
土産だと言って干し柿を取り出した。
俺はお茶を出した。
干し柿を1個、味見を兼ねて食った。
甘味が深くてうまかった。

「鬼屋敷のことは知ってるだろ?」
「ああ、あれだけ大きく報道されればな。
 お前らがここを出ていって
 半年ぐらい経ってからか。
 第9波が始まったのは…」

オビロウイルスの第9波は、
首都圏や、関西圏などの人口集中地域より、
人口密度の少ない県で感染拡大が急だった。
むろん、
感染者数では大都市のほうが多かったけれど、
過疎地の1部地区でクラスターが発生し、
感染者の多くが重症化につながった。

鬼屋敷は、
オビロウイルスに感染するのが
似つかわしくない環境にあった。
新聞、郵便の配達、宅急便の配達、
週に2度訪れる食料品の移動販売車
などを除けば、
外部から訪れる人は稀だった。

戸数21戸で、人口は25人、全員が
60歳以上だった。
この限界集落1歩手前の集落を
オビロウイルスが襲ったのだ。
陸の孤島に等しく、
25人は遠縁を含めれば、
全員が親戚と言って誤りではなかった。
気がついたときには、
全員が感染し大部分が重症化して
21人が死んだ。
回復した4人は集落を捨てた。

鬼屋敷集落の壊滅を知ったとき、
束の間、
俺は蛇我縄にいる河上・未湖夫婦に
思いを馳せた。
2人の身を案じたというより、
陸の孤島のそのまた孤島の蛇我縄なら、
オビロウイルスも近づかないだろう、
と思ったものだ。

「蛇我縄はF町の保健所にも相手にされなかった     
  よ。鬼屋敷が壊滅に瀕した頃、
  蛇我縄では2人が37度5分から  
  38度の熱を出した。保健所は、薬を飲んで安静    
  にしていろ、だと。限界集落だと思って舐めやが  
  ったんだよ」
河上は
俺が保健所の職員でもあるかのように、
上目遣いに睨んできた。
俺はそっぽを向いた。
「俺がいちばん近くにあるドラックストアへ、
  車を走らせて売薬を買ってきたよ。何しろ未湖 
  はハタチになったばかりで、俺は27歳。あとのみ
  んなは75歳以上だぜ。3人が免許を持っていた
  けどよ、すでに返納している」
「そのドラックストアまでどれだけかかるんだ?」
「1時間以上だ。気をつけなきゃ沢へ転落する。
  まだ未舗装の道よ」
河上は、
冷めたお茶を一口飲んで舌舐めずりした。
話すことに熱がこもってきた。
「そんなときだよ、不思議で怪しい
  2人連れの男が蛇我縄へやってきたのは」

河上の話を概略しておく。
確かに、不思議な話だった。

2人の男は、
飛鳥畑一郎と山室博之だった。
飛鳥畑のことは、
蛇我縄の庄屋の家柄生まれの
87歳の人がよく知っていた。
飛鳥畑一郎の父が戦後間もなく、
まだ39戸もあった集落を後にした。
10数年後の風の便りに、
県内のA高原で地ウイスキー造り
をしていると聞いたという。

飛鳥畑は、
A高原で、
父と近くの家の娘との間に生まれた。
父の後を継がずに医者になった。
70歳で現役を退いて、
今は医学書を執筆したり、
趣味のバイオリンを弾いている。

同行した山室博之は、
年齢は40代そこそこながら、
盲目のバイオリニストで、
今は飛鳥畑の師匠だった。

飛鳥畑は、
発熱して安静にしていた2人を診て、
共にオビロウイルスの感染者だ、
と断言した。
そして、全員が感染している虞がある、
と言った。
体温を測ると、
未湖を除いてみんな発熱していた。

「それからな。庄屋の家筋の仏間に、
  全員が集まった。山室という奴には
  異能があり、バイオリンを弾くと、
  飛鳥畑の親父が残したアルコール度数
  88度の地ウイスキーが特殊な発酵をして
  蒸発する。それを吸えば、
  ウイルスは死滅して全快するというんだ」
「怪しい話だな」
「だろ。でも、俺たちを除いて、
  飛鳥畑の話を信じ込んだんだよ。
  迷信深い集落だし、医師の飛鳥畑の話は、
  オビロウイルスがアルコールに弱いこと、
  父親の造った地ウイスキーは、
 3本が保存されているが、これには
 父親しか調合できない漢方生薬が調合されて
 蒸留されたこと、それを根拠に挙げてよ、
 体内に侵入したウイルスを確実に滅させる、
 と言い切りやがった」
「どっちにしろ、ヤベえ話だな。それに
 アルコール分88度なんていう蒸留酒あるのかよ」
「お前、意外にもの知らずだな」
河上は呆れたよう頬を膨らませて、
ブブブブブと吹きだし笑いをして続けた。
「世界には90度以上の蒸留酒は、
 両手の指じゃ足りねえぐらいあるぜ。
 最高の度数はポーランドで造っているウオッカの
 スピリタスだ。96度もある」
「96度! ほんとか、飲んだらどうなる?」
「喉も食道も焼けて胃もやられる。割って飲むんだ。それはともかく、
 飛鳥畑の父親が造った88度の地ウイスキー
 (アスカハタ)はさっぱり売れなかったらしい。
 今ならネットで世界から注文がくるかもな」
「それで感染者は治ったのか?」
「治ったよ。俺も38度の熱があって
 倦怠感さえあったが、平熱になり倦怠感もとれた。
 お前は俄かには信じねえだろうけどな」

確かに、
そのあとに河上が話したことは、
俺には俄かには信じられなかった。

襖戸が閉められて密閉状態の仏間に、
住民9人が座卓を囲んだ。
未湖だけは、
信じられないからいやだ、と言って
自宅に引っ込んだ。
盲目のバイオリニスト山室博之は、
仏壇を背にバイオリンを手にして立った。
飛鳥畑がアスカハタのボトルを座卓に置いて、
その栓を抜いた。
ポーン、と爽やかな音が響き渡った。
山室がバイオリンを弾き始めた。
「山室先生が作曲されたアスカハタに
 発酵を促す曲です」
飛鳥畑が厳かな口調で言った。

蒸留に蒸留を重ねたアスカハタは、
琥珀色に澄んでいた。 
山室博之が紡ぎ出す音色は、
心地よく寛容で素直に心に溶け込んできた。
河上は、
(何か心を清浄にしてくれるようだ。心が喜んで
 恍惚としているような)
と、表現した。
やがて、
琥珀色の液体は、
ボトルの中でゆっくりと渦を巻きだした。
部屋にかすかに甘みのある、
芳醇な香りが充ちていって、
9人の住民の吸気にこもり、
肺の奥深くに忍び入っていく。
バイオリンの音色が体の芯に陶酔の波動を起こし、
それは血管のすべてを脈打たせて
体の隅々にまで行き渡っていった。

河上が気がつくと、
ボトルの中身は3分の1ぐらいに減っていた。

「重症だった2人も飛び跳ねて歩いたぜ。
 みんな生まれ変わったように、
 元気いっぱいになったんだよ」
「飛鳥畑という元医師と、盲目のバイオリニストは、
 そのあとどうしたんだ?」
「その日のうちに去っていったよ。お礼も受け取らずにな」
「さっき、蛇我縄は無人になったと言ったな。第9波に
 やられたわけじゃないだろ。第9波は大都市中心で、
 すぐに終息したからな」
「第3波がくる前に、8人はそろって施設に入ったんだ。
 いちばん若くて75歳だし、後は80代と90代。
 みんな持病もあったし、F町の民生委員が
 働きかけてのことだったな」
「じゃ、お前は未湖さんと2人で住んでいたんだ。
 なぜ、別れたんだよ?」
俺はずっと気になっていたことを訊いた。
「鬼屋敷の最初の感染者は、
 67歳の元気な女性だったが、その人がどこで感染した
 かは不明のままなんだよな」
「謎の感染経路って、テレビで特集したのを見たよ」
「コロナ禍が終息して知ったことだけど、
 鬼屋敷の最初の感染者の67歳の女性は、未湖の伯母だったんだよ」
河上は大人から叱られた子供のような表情になった。
「未湖の伯母は、蛇我縄集落のある谷筋で
 山菜が豊富に採れる穴場を知っていたんだ。
 2度ほどその場所を教えるために、未湖と
 落ち合ったらしい。それで感染したんだろ」
「じゃ、未湖さんが感染させたんだ」
俺が言うと、河上は大きなため息をついた。
「俺も免疫が強いほうだが、未湖と蛇我縄へ
 移り住んだときには感染していたと思う」
「未湖さんはどこで感染したんだろ?」
「あいつは感染させるだけなんだ。先祖代々から
 受け継いだ絶対免疫でな」
河上はブルッと体をひと揺すりさせた。
その大きな瞳の奥に恐怖が宿った。
「未湖が出ていく前の日に、俺は
 未湖の生まれ故郷へ行ってきたんだ。
 それで未湖の秘密が解ったんだ」
「秘密!?」
「I県のO村だよ。そこに江戸の初期に
 創建されたという小さな神社がある。
 創建時から疫病を防ぎ、疫病にかかった人を
 治す霊験があると言われて、今も参詣者が
 絶えないそうだよ。未湖はその神社の世襲の
 神主の家に生まれているのよ」
「未湖さんの名前は巫女から取ったのかな」
「そうらしいな。代を重ねるうちに
 疫病に対する絶対の免疫を獲得した家系なんだ。
 100年前のスペイン風邪にも、幕末維新に
 流行ったコレラにも無縁てことよ。感染しても
 うつすだけでな」
「じゃ、鬼屋敷を壊滅させたのも、
 蛇我縄の住民を感染させたのも元は未湖さんか?」
「そうだよ。俺は許せなくてな、未湖を責めた」
「翌朝、未湖は、あとで判を捺した
 離婚届を送るむねの書置きをして出ていったよ」
ガタッ、と椅子を音させて、
河上は不意に立ち上がった。
テーブルに琥珀色の液体の入った
ボトルを置くと、
「アスカハタだ。よかったら飲んでくれ」
と、せかせか言ってドアへ向かった。


河上が姿を消すと、
俺は立ち上がるのも面倒なほどの疲れを覚えた。
あいつの話を聞くと、いつもそうだった。
俺はアスカハタに目をやった。
琥珀色の液体は、ゆっくりと渦を巻いていた。
乱暴に置きやがったからな、
と俺はつぶやいて薄い笑いを浮かべた。
「いつもより話はよくできていたな」

河上には物語のように嘘をつく虚言癖があった。