色校のチェックを終えて、
玉井編集長は僕をにらんだ。
「これで3年連載のシリーズが終わる。
でもな、
大人気シリーズの第1段階が終わった、
ということだ」
編集長は、
僕以外の編集部員6人もにらんでいく。
やぶにらみ気味なので、
ただ見られても、
にらまれたように感じる。
「最終回が載るブラボーの来週号が
発売になったら、すぐに
シリーズ最終巻の編集に着手する。
午前中の役員会で、
最終巻の初版部数は、
200万部に決まった」
僕以外の部下は、
みんな驚嘆の奇声を発した。

週刊少年ブラボーの人気連載漫画
「ツチグモ族の赤い月」は、
連載2年目あたりから人気が急上昇し、
発行部数を上向かせていった。

単行本化のシリーズも
始まっていたが、
同時期発売の第4巻は、
初版20万部が半日で売り切れ、
大好評で版を重ねていった。

人気に輪をかけたのが、
昨年のテレビアニメ化だった。
以来、
メデイアで大きく取り上げられて、
同漫画の人気は、
社会現象化した。
先月発売の第19巻で、
累計発行部数は2900万部を超えた。

時代はエログロナンセンスの
昭和初期、
舞台は全国のひなびた山間の地。
人跡未踏の洞窟から
大和朝廷に滅ぼされた
異能の民ツチグモが甦り、
里の女たちを食らう。
それに立ち向かう昭和の検非違使達。
令和の若者、特に女性に、
そのおどろおどろしさが受けた。
それ以上に、
作家が女性でまだ20代で、
という以外は、
すべてが謎に包まれていることが、
同漫画の人気に拍車をかけていた。
編集部がそれ以上の情報を
出さないためだった。
いや、出せないのだ。
「社長が一言ご挨拶を、とまた 言ってきているんだよ。
 何とかならないのか?」
編集長が僕を見た。
「それは絶対駄目だ、と片桐さんが
 強く首を振りましたから」
「やはり、片桐さんが実際の作者じゃないのかな」

編集会議終了後、
僕は1人で飲んで、
1DK の安マンションへ帰った。
やりきれなかった。
「ツチグモ族の赤い月」の作者は、
神蜘蛛美麗那(かみくもみれな)と言った。
無論、
ペンネームだろう。
片桐さんはその秘書だった。

神蜘蛛美麗那は
週刊少年ブラボー賞に応募してきて、
ダントツの評価を得て受賞した。
受賞作は単発作品だったが、
当時から打ち合わせ等に
現れたのは、
研究者肌の片桐さんだった。
当時の担当編集者は、
神蜘蛛さんに会わせるよう
強く迫ったことで忌避されて、
新卒だった僕にお鉢が回ってきた。
片桐さんとは相性がよかった。
仕事を離れて、
片桐さんと飲むと楽しかった。
片桐さんは40代で、
元々は昆虫学の研究者だった。
小、中学校時代の僕は、
昆虫採集に夢中になった。
高尾山に新種のチョウを求めて道に迷い、
警察に迷惑をかけたこともある。
「片桐さんが神蜘蛛先生だとは言いませんが、
 アイデアは片桐さんでしょ?
 古代のまつろわぬ民だった土蜘蛛にかけて、
 ストーリーが生まれているもの」
ある夜、
タブーを破って、
仕事がらみの話に踏み込んだ。
「さあー、土蜘蛛は昆虫ではないよねえ」
片桐さんは、
穏やかな笑顔を見せた。
「神蜘蛛先生は外出もなされないんですか?」
「人嫌いなんだ。というか、
人に見られたくないということだよ」
片桐さんは、
苦しそうに言葉を吐き出した。
それで、
僕は神蜘蛛美麗那の話題から離れた。
このとき以降、
僕が片桐さんに神蜘蛛先生のプライバシーについて、
訊くことはなくなった。

ところで、
やりきれなくて1人で飲んだわけは、
来月いっぱいで、
僕は神蜘蛛先生の担当から下りる
ことになったから。
「後任は兵頭君だ」
兵頭さんは僕より2つ3つ上の先輩編集者で、
女子大時代、
ミスコンでグランプリに輝いた。
男好みの美人で独身、
片桐さんも独身だし、
親密になるだろう、
いや、なってほしいというのが
編集長の本心だと思う。
兵頭さんが担当になったところで、
僕が神蜘蛛先生について知り得た
以上のことは、
けして解るまい、
と僕は泡盛のお湯割りをぐいぐい飲みながら、
1人気炎を上げて酔っ払った。
本当は片桐さんを飲みに誘ったが、
明朝一番で三浦半島に昆虫採集にいくので、
と断られた。


神蜘蛛先生は北陸の出身で、
その原稿料、印税の振込先は、
片桐さんの指定で、
神尾静というお母さん名義の口座だった。
担当になってまもなく、
そのお母さんとの関係を訊いたことがある。
「お母さんは私の小学時代の恩師でね、
 女手1つで3姉妹を育てられた」
「すると、神蜘蛛先生はその3姉妹
 のうちの1人なんですか?」
「さあねえ」
そのとき、
片桐さんはぼかして微笑した。
問わず語りに聞き出せたことをもとに、
僕は片桐さんのことを、
日常生活に支障があって、
恩師の娘でもある
神蜘蛛先生の世話をしているんだ、
と思いこんだ。
でも、
神蜘蛛事務所に顔を出すたびに、
もう1つ別の思いに捉われた。
勘のようなものだが、
片桐さん以外、あそこは人間の臭いがしない。
奥の部屋が仕事部屋ということだが、
そこへ片桐さんが出入りしたときに、
人工音声が聴こえたことがある。
神蜘蛛美麗那は、
片桐さんとAI の
共同作業が生み出した
マンガ作家ではないか。
奇怪なことだが、
ネット世界の今日ではありえない
ことではない。
帰宅してからも、
缶ビールを飲み
あれこれ思いを巡らせた。
そのうちに、
僕は抗いがたい睡魔に捉われていった。

翌々日、
僕は自宅から神蜘蛛事務所へ直行した。
「来月末できみは担当を下りるそうだが、
 ちょうどいい区切りだった」
片桐さんの頬に濃い疲労が滲んでいる。
「兵頭が近いうちにご挨拶を…」
「その必要はないんだよ。いつかきみに言った、
 と思うけれど、あのシリーズは来週号の
 ブラボーで、単行本は来月頭に出る
 第20巻でしっかり完結させている」
「しかし、あまりに急なことで」
僕の声はかすれていた。
「ダラダラ連載を延ばすのは嫌だ、
 と神蜘蛛は言っている。それに、
 神蜘蛛の体調の問題もあるんでね」
「僕は社内で吊るし上げになるでしょう」
僕はあきらめ気味に苦笑した。
いつかこんな日がくるのではないか、
という予感めいたものを感じたことが何度かあるのだ。
「大丈夫だよ。
  お宅の社長へは私から連絡を入れておく。
  こっちの打ち切りの希望を
 入れてくれないのなら、
 御社からすべての版権を引き上げる、とね」



神蜘蛛事務所から出社すると、
すでに会社中の騒ぎになっていた。
編集部もみんな仕事が手につかず、
「片桐が何だ!」
と、息巻く者もいれば、
「第2段階のシリーズを、
 ライバル社に持っていかれるんじゃないか」
と、肩を落とす者もいた。
長い役員会議から編集長が戻ってきて、
訓示するよう告げた。
「神蜘蛛美麗那先生は筆を折られる、
 ということなんだ。テレビアニメの
 シリーズ第2弾の放映も近づいている。
 映画の撮影も順調だそうだ。つまり、
 ツチグモの赤い月、のシリーズ全20巻は、
 こうしている間にも5000部6000部と売れていく。
 みんな、安心していいぞ」

次の朝、
出勤の支度をしていると、
片桐さんから電話があった。
「事務所へきてほしい。
 神蜘蛛美麗那に会わせるよ」
「すぐに行きます」
僕は弾んだ声で答えて、
すぐに電話を切った。
直後に、
片桐さんの声がとても沈んでいたことに気づいて、
嫌な予感を抱いた。

僕を事務所に迎え入れると、
片桐さんは声を落として言った。
「神蜘蛛美麗那が亡くなった」
「えっ」
「推定21歳だから寿命だろ。会ってくれ」
片桐さんは、仕事部屋へ向かった。
僕は弾かれたように、
そのあとを追った。

一見、オーディオルーム風だった。
壁に複数のモニターが取りつけられていた。
長い机に横向きに置かれたパソコンと、
それと対峙するように、
長方形の箱状のものが置かれて、
白い布がかけられていた。
「冷房をかけていないが、
 かけると冬眠しちゃうのでね」
片桐さんが妙なことを言った。
「きみはトタテグモを知っているだろう?」
「勿論、知っています」
トタテグモは地中に穴を掘り、
その中に潜んで獲物を待ち構える。
穴の入り口近くに、
蜘蛛の糸で作った戸を立てる。
それに獲物がかかると、
飛び出して食いつくので
トタテグモの名がある。
「数年前に、オーストラリアで43歳の
 トタテグモが死んで話題になりましたね」
片桐さんは僕の言葉に反応しないで、
白い布をとった。
長方形のガラス箱が現れた。
「解るかね?」
底に枯れ葉の混じった土が
厚く敷かれている。
小さな穴があり、
蜘蛛の糸を張った戸が立てられている。
穴のそばに体長20ミリ弱ぐらいの
蜘蛛の死骸があった。
体色は黒褐色だった。
「キシノウエトタテグモですね。
  本州以西に棲息していますが、
  大変数が少なくなっています」
「さすがは元昆虫少年だ。
 よく知っている。京都の嵯峨野で
 採集してから16年経っているんだよ」
「あのォ、神蜘蛛先生は?」
僕は片桐の顔を見つめた。
少しの沈黙のあと、
片桐さんは、
キシノウエトタテグモを
ガラス越しに指差した。
「神蜘蛛美麗那だよ。
  超能力というか、神秘の力を持っていた。
  ストーリーが浮かぶと、
  ガラス越しにキーを動かした。
  絵もすべて彼女が描いた。
  無論、私がプログラマーとして補助をしたが、
すべては彼女の オリジナルだった。

僕は、
神蜘蛛先生の死骸に目を戻して、
なぜか感動して戦慄した。