奈摘がストレッチをやっっている。
くたくたのTシャツに、
洗いざらしのジーンズという
普段着姿で、
体のあちこちを
グニャリグニャリと折り曲げては
スーイスーイと伸ばしている。

本当に柔らかい体をしている。
見る角度によっては
両腕、両脚が見えず、
ダルマさんかと驚くことがある。

見ていて、
変な気になることがある。

「何、そんな顔をして~」
奈摘が動きを止めずに、
切れ長の目を少し流して
僕を見た。
「いや、なに、相変わらず柔らかいね」
僕は心の底を見透かされたように、
しどろもどろになった。
「あなたもやれば」
奈摘の弾むような笑い声を背に、
僕は小さな書斎兼仕事部屋に入った。
シフトで今日は在宅勤務だった。

奥の壁に作りつけた机へ行って、
頬杖を突いた。

菜摘と結婚して、
そろそろ 1年になる。
大学の先輩の紹介で会い、
一目惚れに近かった。
「不倫が好きでね、きみとは正反対だよ。
  すべてが正反対かもな」
菜摘が席を外したとき、
先輩が小声で言った言葉に、
僕は驚愕した。

それでも、後日、
僕は菜摘にデートを申し込んだ。
そうして、
最初のデートを終えて
帰宅した僕は、
菜摘に心を虜にされた男
になっていた。

僕は人見知りするタイプで、
メニューを開いても
菜摘の好みを確認するのに、
もぞもぞ手間どった。
それを見て、
菜摘は僕の好みを確かめると、
ウエイターにテキパキとオーダーした。
言葉少なの僕に次々に話題を変え、
うまく会話をリードしながら、
雰囲気を明るく盛り上げた。

ただ 菜摘は酒類は駄目で、
飲み物はノンアルコールだった。
僕はそれほど強くはないが、
焼酎のお湯割り2杯の
晩酌は欠かしたことがなかった。

菜摘は根が甘党だと言ったが、
「これ、ジムへ通う前の私よ」
と レオタード姿の画像を見せた。
おデブさんではなかったが、
どことなくふっくらした体型だった。

2度目のデートで、
僕はプロポーズした。
引っ込み思案の僕が
どうしてこんなに果敢なのか、
と自分でも驚いたほどだった。

それ以上に、
彼女の打って変わった
しおらしい態度に驚かされた。
「いいの、私で?」
「菜摘さんでなければ、
 僕は、駄目、なんだ、よ」
堅物と言われている僕が
こんな言葉を吐くなんて。
「嬉しいわ、本当に、嬉しいわ」
菜摘は切れ長の目に、
うっすらと涙を浮かべた。

そのときの菜摘の様子に、
先輩の言葉を思い出し、
僕は一抹の不安を覚えたものだ。

あれだけの魅力を持った
女性だから、
恋のいくつかはあったに違いない。
その1つの相手が
妻帯者だったのだろう。
僕のプロポーズに
涙を浮かべて喜んだのは、
その人に対して
まだ残っていた想いを消して、
心の整理がついたからだ。
きっと、そうだ。


僕は先輩に菜摘と結婚する
ことを報告した。
「そうか、よかったな。お互いに
 補いあっての相性はいいぞ」
「あの~」
菜摘のことで訊きたいことがあったが、
切り出せなかった。
「きみらにふさわしい愛の巣を
探さなきゃな。プッケンのことだ」
先輩には、
濁音と半濁点の区別などが
不明瞭のときがあった。
「物件だよ、物件。6万円のアパート
 じゃ、しょうがねえだろ」
先輩は不動産会社に勤めていた。

結婚してから
菜摘に不満を持ったことは
1度もない。
フレンドリーで闊達な性格だから、
人間関係は豊かだった。
特に男性からは慕われた。
しかし、
要所では毅然とした態度をとり、
けして隙を見せなかった。

出勤する姿で、
菜摘はコーヒーを運んできた。
「テレワーク、ご苦労様。行ってくるわね」
部屋を出ていく、
その後ろ姿を見送った。
ひと頃に比べると、
少し体重が増えたように見えた。

そう言えば、
ジム通いは週1回が
月2回ぐらいになっている。
自宅でのストレッチは、
欠かさないが。

ジム通いが減った分、
遅く帰ることは増えた。
菜摘は銀行の本部に勤めており、
先頃、異動があり、
残業が増えたらしい。

薬品会社の開発部で、
研究員をしている僕には、
菜摘の仕事の内容は
想像もつかなかった。

遅いと、
普段は心に針の先ほどの
菜摘に対する不安が、
一円玉ぐらいに膨らんでくる。

いっそブタちゃんぐらいに
太ってくれないかな。
それでも、
僕は菜摘が好きだ。
そのすべてが好きなのだ。

結婚1周年は、
海の見えるフレンチレストランで、
豪華なランチで祝った。
菜摘のチョイスで、
とびきり美味しい赤ワインを、
僕は1人で飲んだ。
菜摘は食後の、
その店創作のフルーツケーキを
慈しむように食べた。
「太るよ。いいの?」
この2週間で2キロ近く増えた
ようだ、と僕は思った。
「筋肉バキバキの女って
 男は嫌でしょ」
「僕はいいよ」
「あっそうそう。今週の木曜日、
 少し遅くなるわ」
「残業?」
「今度の部署での上司って、
 私の入社時の部署の上司だったの。
 誕生日なのでお祝いしてあげたいの」
菜摘はさざ波に
昼下がりの陽光を受けて、
間断なく輝く入江の海よりも、
双眸をキラキラさせて言った。

その日の夜、
僕は菜摘の帰りを
イライラしながら待った。
やっと帰ってきたので、
僕は壁に体を向けて
狸寝入りをした。

やがて、
化粧を落とし
パジャマに着替えたらしい
菜摘が寝室に入ってきて、
ベッドの僕に、
「楽しかったわ、とても」
と、弾んだ声を上げた。
僕は体を固くして黙っていた。

翌々日の土曜日、
僕は先輩にメールを送った。
(菜摘の入社時の上司で、
 今の部署の上司を知っていますか?)
さすがに、
不倫の相手だった人か、
とは訊けなかった。

買い物から帰ってきた菜摘が、
話がある、
と改まった感じで、
リビングのテーブルにいる
僕の前へきた。
「なに?」
「私、来月いっぱいで会社を辞めたいの」
「えっ、どうして?」
僕の心で針の先ほどの黒点が、
10円玉ぐらいに膨らんだ。

このとき、メールの着信があった。

(その上司は菜っちゃんがとても
 信頼している相手だよ。
 相談もよくしているらしいぞ。
勘違いすんなよ、お前。その上司は
女だからな)

菜摘は冷蔵庫から何か出してきて、
その蓋を開けた。
プリンだった。
「私、プリン依存症って
 言われたことがあるの」
菜摘は幸せそうに、
プリンにスプーンを入れた。
そうか、
先輩は不倫と言ったのではなくて、
プリン、と言ったのだ。
僕の顔は光るように輝いたはずだ。
「少しは甘いものも取らなきゃ。
 上司と夕食を一緒にした日、
 会社の近くの産婦人科へ行ったの。
 3ヶ月だって」
僕の顔は、
さらに輝きを増したに違いない。
「上司に言ったら、会社を辞めて
 子育ての準備に備えなさい、って」
「いいな、いいな」
僕は歌うようにつぶやきながら、
菜摘のほうに回り、
そのお腹をそっとなでた。

菜摘は夢中で
プリンを食べ続けた。