「イサム、しばらく」
僕は声の主を見た。
記憶から消したいのに、
消せない顔が笑っていた。
中学を卒業して、
僕は自分の強い希望で、
アメリカのイリノイ州にある
ハイスクールに留学した。
素朴な英語を身につけたい、
という思いからだった。

まさか日本人はいないだろう、
と思ったのに1人いた。
そのたった1人の日本人が今、
目の前で笑顔を見せている
真有だった。

「今、日本に住んでいるの?」
「ウウン、たまたまよ」
真有は首を振った。

真有は州都スプリングフィールド
に駐在している
農業研究員家庭の1人娘だった。

結婚は?
と、訊こうとして咄嗟に、
僕はその言葉を呑み込んだ。

向こうの大学に
入学するつもりだったが、
その予定は一気に崩れさった。
僕は心に深い傷を抱いて帰国し、
私立高の編入試験を受けて
3学年に編入し、
1年遅れて日本の大学に入り、
昨春に卒業した。

僕が少し言葉に詰まっていると、
彼女は、
「あなたの今の苦境を助けたいの」
と、笑顔を消して言った。
「苦境って?」
「あなたは自殺を企図しているわ。
 それも、かなり強い意思と願望で」
僕が(きらめく黒真珠)と名付けた
瞳をキラリと輝かせて、
真有は唇をほんの少し開いて微笑んだ。

その瞳も微笑も留学時代の
僕を魅惑させたものだった。

「州立イリノイ大の大学院で
 SNSにおける誹謗中傷の対処について
 研究しているの。私が言ったとおりにすれば、
 貴方は自殺を思い留まるわ」
真有はさり気なく、
そのように内心の自信を滲ませて言った。

近くの小公園のベンチに
僕と真有は並んでかけた。
彼女に見破られたように、
僕は自殺するつもりでいた。
2週間ほど前、
パワハラで23歳の女性が自ら命を絶った。
僕はツイッターで呟いた。

〈そういう上司なら僕の職場にもいる。
 でも、そいつのパワハラで自殺した者はいな         い。
 もっと強く生きてほしかった。〉

はじめ3つ4つのリプだった。
きつくて汚い言い回しで
僕を責めるものだったが、
これで終われば、
僕も殆ど傷つかないですんだろう。

でも、
誹謗中傷の呟きは、
日ごとに増えて炎上状態になった。
ごく大ざっぱなプロフィールと、
過去のツイートから、
僕と特定できる奴がいたらしい。
僕と僕の勤務先は、
ネット上にさらされた。

それからは、
電話も含めて、
職場を誹謗中傷抗議の嵐に巻き込んだ。
僕は退職に追い込まれた。

この数日は、
誹謗中傷のリプや、
書き込みを1つ1つ読むことが
日課になっている。
傷を際限なく深くするだけなのに、
なぜ読み続けるのだろう。
自殺したいという
気持ちを補強するだけなのに。

そっか、
僕はこの世の中には
要らない人間なんだ。
生きていてはいけないんだ。

「まずその気持ちを捨てることよ」
真有は僕の気持ちを読めるのだろうか。
「誹謗中傷から心を守るのは、
 そんなに難しいことじゃないのよ。
 リプの1つを繰り返し見て読むだけでいいの。
 次の日は2つ、その次の日は3つの
 リプをを繰り返し見て読むだけ。
 5つまでいったらどんな誹謗中傷にも
 平気になるわ」
「そんな簡単にいくかな」
「誹謗中傷に興味がなくなるの。
 もう1つのことを加えれば更にね」
「何?」
僕は初めて真有の横顔を見た。
「制限字数一杯に(死ね死ね死ね)を
 連ねたものがあったでしょ?」
「そんなの、やたらあったよ」
僕は少し投げやりに答えた。
「死ねをしろに変えて、好きなことを
 しろしろしろしろ、って繰り返し見て
 呟くのよ、声に出して」
そんなことで、
誹謗中傷に免疫ができるのか、
と僕は半信半疑だった。
でも、
真有の言うことだからやってみよう、
と心に決めた。
この世での僕の
最後のイベントにもなる。

真有が立ち上がった。
「あの…」
と僕はあわてて言いかけたが、
結婚したの、
と続けようとした言葉を抑えこんだ。
真有がとても苦しそうな
表情を見せたからだった。
あのときの表情とまったく同じじゃないか。

ハイスクール最終学年の新学期の日、
僕は1年以上も温めていた
真有への気持ちを、
真有に伝えた。

元クラスメートとの噂が
流れてきたことはあった。
そのときは動揺したけれど、
それ以上に、
僕と真有は心が通いあっている
という幻想を信じていた。

だから、
満を持して告白した。
真有は言葉を出せずに、
とても苦しそうな表情を見せた。

それも僕への優しい気遣いだったのか。
その優しささえも、
そのときの
僕には非情の仕打ちに思えた。

「騙されたと思って、
 今、言ったことをやってね」
僕に背中を見せて、
そのまま出口へ向かいかけた真有に、
うんと僕は答えてうつむいた。

顔を上げたときには、
真有の姿はなかった。

僕は言われたとおりにやった。
最初に目に入ったリプである
〈テメーの頭、腐ってるぞ〉
を(お前の頭、冴えてるぞ〉
に置き換えて、
4,5時間、繰り返し呟いた。

2日目は、
〈車に轢かれろ!〉と、
〈死に神かよ、アンタ〉の2つだった。
前の言葉は、
(みんなに好かれろ!)
後の言葉は、
(女神様かよ、あなた)に言い換えて、
朝から晩まで呟き続けた。

3日目、
その作業をやる気がなくなった。
誹謗中傷のリプをいくら見ても、
エゴサして
僕に対する誹謗中傷の
書き込みを見つけても、
僕の心の傷は疼かなかった。

どうしてこんな
ただのゴミに過ぎない言葉に、
今までの僕は過剰に反応して
グサグサ傷つき、
自殺まで覚悟していたのだろうか。

真有が言ったことは本当だった。
正味2日で、
僕は誹謗中傷の言葉に免疫を得た。
凄い、凄いぞイサム。
凄い凄い凄いぞ真有。

この翌日、
僕は真有に報告し、
感謝の気持ちを伝えようと思った。
すべてを一からやり直そう、
という新しい覚悟も生まれていた。

真有の連絡先を聞いていなかった
ことを悔やんだ。
イリノイ大の大学院に問い合わせたが、
そのような研究室も、
研究サークルも存在しない、
とうことだった。
名前がマユウという院生もいない、
と。

僕は途方に暮れた。
気を取り直し、
ハイスクール時代に
仲よくしていたダニエル
と連絡をとることにした。

その実家に問い合わせたら、
ダニエルのケータイの
番号を教えてくれた。

ダニエルは
シアトルで中学校の教師をやっていた。

「ヘーイ、イサムかよ。懐かしいな」
「真有の消息を知りたいんだ」
「マユウだって? おい、知らないのか」
「えっ・・・」
僕は真有に関する重大なことを
知らないでいるらしい、
と緊張した。
「彼女はミネソタの州立大に進んだ。
 卒業の年に、バイトをやっていた地元局の
 番組スタッフにスカウトされて、
 あれよあれよという間に、
   人気レポーターになったんだよ。
 でも、間もなく、
    ちょっとした発言が差別として取られて、
 マユウのSNSは炎上した」
「それで?」
僕の声はかすれていた。
「自殺したんだよ。
 そこまで追いつめられていたとはなあ」
僕はもう言葉が出なかった。
「きみはなぜ彼女に告白しただけで、
 すぐに帰国したんだ?」
ダニエルの口調には咎める響きがあった。
「あの前日に、マユウは、ほら、あいつに
 告白されOKしたんだ。本命のきみが
 いつまで経ってもはっきりしなかったからな」
僕は言葉を発せないまま、
電話を切りかけていた。
「きみのやっとの告白に、
  彼女はあいつに断ってから
  きみに返事をしようと思っていたんだよ。
  逃げたきみのことをずっと想っていたぜ」
僕は震える指で電話を切った。


あのときの
とても苦しそうな表情は、
喜びを噛みしめてのことだったのか。

同じ表情を見せ、
その意味を僕に悟らせるようにして、
真有はまだ当分は
僕には手が届かない
世界へ還っていった。