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先日 
浜松へ仕事で行った。
大河をいくつ越えたろう。

多摩川
酒匂川
富士川
大井川
天竜川

1つ2つ漏れていないかなあ。

大河間には中小の河川が流れている。
用水などの水路を含めると無数になる。

分水嶺の向こうには
日本海に注ぐ大河もいっぱいある。
ゴボウのように長細い国なのに
そのゴボウを薄切りにするように
こんなに河川が流れている。

日本はつくづく水の国だと思った。
当然
生まれる文化も水の文化ということになる。
茅葺き 梁 柱 障子戸 畳 土間
に象徴される日本家屋も
豊かな水の裏づけがあってのことだ。
再生可能な自然に由来するものを素材にしている。

泉水のある寝殿造りも
池泉回遊式の庭園も
生け花も 茶の湯も
みんな水の文化である。

僕が今日までの人生の殆どを過ごした武蔵野も
水の生活と文化が息づく地だった。
武蔵野台地の落ちくぼんだところを
野川が流れている。
僕が小中学生の頃は
所々で水車が回っていた。

その河岸段丘では樹木がうっそうと茂り
随所で清水が湧いていた。
いくらでもすくって喉を潤すことができた。

飲料に適さない旨の注意書きが
とろとろと湧き方に力がなくなった
清水の縁に掲げられるようになって
60年前後が経過している。

今はどこへ行っても余程の山奥でなければ
こんこんと湧いていても
飲料には適さないとされている清水が多い。
清水の汚れは水文化日本の衰亡の前兆である。

自然エネルギーで
日本の全エネルギーが賄えるようになって初めて
日本の水文化は守られ新たな興隆が約束される。

本当は日本だけの問題ではなく
世界が再生可能な自然エネルギーの
恩恵に浴する時代の到来が必要だろう。