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駅前風景が電飾で一変した。
そういう思いは
多くの人が経験したのではなかろうか。
城郭などの史跡も電飾している。
個人の邸宅でも電飾していることがある。

写真はJR中央線のM駅北口の電飾風景で
初めて見た人は目を見張る。
電飾風景は今やありきたりのもの。
この駅の北口のものは初見参だったので
瞠目したということだろう。
この夜
僕はタクシー乗り場に行列ができていたので
10分ぐらいはこの電飾風景を見ていた。
綺麗だな
という最初の印象が
ずつと見ていると
淋しくな
に変わった。
さらに
虚しいな
という思いがこみ上げてきて
目を背けたところ
やっとタクシーの順番がきた。
途中 玉川上水の桜並木が作る暗がりに接して
ほっと安堵した。

タワーマンションの40階前後にある
知人の住まいから
人工の灯りに彩られた
眼下の都会を見下ろしたときにも
同様の淋しさと虚しさに襲われた。

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この写真のような大自然が
電飾で飾られたら観にくる人はいるだろうか。
ひっそりと暗い
もしくは 夜行性の鳥獣の声とうごめきを知りたくて
訪れる人はいるかもしれない。
大自然は昼も夜も大自然でいいのである。

先ほどの駅前電飾風景に見入っていた1歳前後の子がいた
行列に並んでだっこしていた若い母親は
ほら 綺麗でしょ
と盛んに煽っていた。
この子にとって この電飾風景は
あるがままに受け入れて
自分の記憶に刷り込んだろう。
昼間の駅前風景は
並木の枯れ葉が風に転がり
ロータリーの樹木が淡い紅葉を日にさらし
やや侘びた風情を見せる。
先ほどの子がその生の風景を見て
裏のものと受け取っても不思議でない。

前日の正午近い時間
年若いカップルが
「やはり 夜景がいいな」
「昼間はオシャレじゃないのね」
と 会話しながらロータリーを回り
駅舎に消えた。

虚飾の風景が主になり
正真正銘の風景が従になっている。

自然を開発して街にしてきた人類にとって
とっくに虚飾が主
自然が従になっている。
このとき 僕は自分の感性に揺らぎを覚えた。

普通の人間にまだ残っていた自然への傷みが
僕にも残っていて それが揺らいだように思った。