あるテレビ番組で取り上げた工場の所在地表示で、

「燕三条市」という市名が登場したらしい。

燕市も三条市もあるが、

燕三条市は存在しない。

両地域の住民は江戸時代から対抗意識が強い。

刃物類の生産が盛んだった燕地域は、

商業が盛んな三条地域の商人に販路を託した。

切っても切れないパートナーとして仲よくすればいいものを、

士農工商の時代で、職人たちには、

「ものを作れぬ商人風情が自分たちが作ったものを売って

 ボロ儲けする」

という意識があり、商人たちには、

「ろくにカネ勘定もできないくせして、偉そうな顔をする」

という反発心があったらしい。

それが今日に尾を引いて、

対抗意識が強く上越新幹線の駅の誘致では互いに譲らなかった。

さあ、そこで登場したのが新潟出身の政界大立者田中角栄氏。

燕三条という駅を三条市内に作り、

その代わりに北陸高速道路のインターチェンジは燕市内に作って、

名称を三条燕とするという折衷案を出した。

天下の角さんの提案とあっては、

三条市も燕市も受け入れるしかなかった。

そういう背景があって県外の人には、

燕三条も三條燕もそういう駅名や、インター名があるので燕三条市や、三

條燕市があると思い込まれることもよくあった。
両市の人の多くはどんなに年月が経過しても燕三条市や、

三条燕市はありえないと固く信じている。
そういう頑なな対抗意識が色濃く存在するので、

燕三条市という誤表示には、

かなりのザワザワした反響があったようだ。

このニュースを見て、僕も強く反応した。

というのは、

2004年10月23日、僕はよい子に読み聞かせ隊の仲間と共に、

三条市の中央公民館を訪れて読み聞かせイベントを行っている。

市内のきらきら保育園が主催したもので、

園児はもとより保護者や、

保育に関心の高い一般市民も多数参加してくれた。

その折り、話しかけてきた保護者の方と少々の立ち話をした。

「新潟へはよく来られていますか?」

「講演を含めると30カ所ぐらいはやっています。このあたりでは柏崎市も加茂市も・・・」

「燕には?」

「まだです」

「燕にもし行かれるようなことがあったら、三条市では盛況だったなどと

 言わない方がいいでしょう。三条市のことはすべて褒めない方がいいでしょう」

「えっ、なぜですか?」

「いい顔をされないと思いますよ」

 それから4年経った2008年12月7日、

燕市市民会館で僕は読み聞かせ&講演を行った。

終了後にトイレへ行き、その帰りに、

「先生、以前、三条市でやりましたね。新聞で見ました」

60歳前後の男性に声をかけられた。

「はい、4年前ですね。やりました」

「どっちが盛況でした?」

さあ、と僕は数秒間をおいて言った。

「同じようでしたね」

「そうですか」

60歳前後の男性はつまらなそうな表情を見せて、

すぐに僕から離れていった。

 

このときからでも15年経つ。

三条市と燕市の対抗意識はまだ根強く残っているらしい。

 

※ 1枚目の写真は三条市中央公民館にて

  2枚目の写真は燕市市民会館にて