東京都民だが、

Jアラートの緊急警報にはびっくりさせられた。

 北海道の人は腰を抜かしたんじゃないか。

たまたま、地下鉄で出勤途中の人は、

そのままでよかっただろう。

でも、農家などの人で

近くにコンクリート造りの堅牢な建物など見当たらない地域の人は、

大慌てだったに違いない。

そうした人にも窓から離れ窓のない部屋にこもるよう指示していた。

本当にミサイルが降ってくれば、

我が家にいて窓のない部屋にこもっても、

建物もろとも木っ端微塵になるだろう。

Jアラートを発令されたからには、

日本の排他的経済水域外に落下する通常のミサイル発射実験と違い、

多くの人が北海道の何かを標的にしたミサイル発射と勘違いしたかもしれない。

そうでなくてよかったが、

ウクライナでは戦争が続いているし、

台湾情勢の緊迫もあってナーバスになっている日本国民は少なくない。

Jアラートの発令にはもう少し正確な情報が必要なのではないか。

ところで、僕は現在の東京都小金井市にあった旧国鉄官舎で、

太平洋戦争中のほとんどの期間を過ごしている。家から 北西へ2キロそこそこの所には、

最盛期従業員5万人を誇った中島飛行機武蔵工場があった。

4歳の秋11月に、

この巨大工場がB29の編隊により空爆されたときは、

ズシ〜ン、ズシ〜ン地響きのような爆弾炸裂音が伝わってきた。

翌昭和20年になり3月の東京大空襲のときは、

防空壕に入らず家族で真っ赤に焦げる西の空を見つめ続けた。

硫黄島が陥落すると、

それまでの艦載機のグラマンだけではなく、

硫黄島から米陸軍機のP-51まで飛んできて、

我が家の空は昼も夜も戦場になる。

我が家の東南2キロ未満の所には、

陸軍の調布飛行場があった。

ここから舞い上がった日本の戦闘機は機数こそ少なかったが、

勇敢で強かった。

夜の空中戦ももよく行われていて、

縁側に腰掛けながら見物していた。

もちろん、いつも空襲警報が鳴って、

それからしばらくしてB29の大編隊が西方向へ飛んでいったり、

この辺の空域で敵味方の戦闘機がよく巴戦を行った。

空襲警報が鳴ると電燈の傘にセットしてあった黒い布を垂らし、

明かりが漏れないようにしていた。

我が家の庭には防空壕があったが、

僕の記憶では2、3回しか使用しなかった。

官舎の人はみんなそうだったな。

防空壕を直撃されればお陀仏だ、

ということは子供でもわかっていたのよ。

庭に防空壕があっても、

家という建物が焼夷弾で燃えれば蒸し焼きになる。

そのことも充分わかっていたから、

みんな覚悟を決めて防空壕には入らなかった。

空襲警報のサイレンは少し離れたところで耳にすると、

なんだかユーモアでのどかな音だった。

 

Jアラートはもう少し慎重にもう少しうまく運用してほしい。安倍政権時代にも1度発令されたと思うが、

こういう発令が続くと、

オオカミ少年的な存在にされかねないのではないか。