30代半ばから40歳近くまでの僕は
人生でいちばん不摂生な時期を送っていた
飲み明かしたり
その他で朝帰りが連日のこともあった
20代の体型を維持していたのに
これまでの人生で
いちばん肥えてしまった
まだ直木賞受賞前だったが
小説の注文も途切れず
ヒットシリーズ生まれた
そんなある日
朝日を背にまぶしく受けながら
門を開けると
浴衣姿の父が棚に並べた盆栽に水をやっていた
父が僕を振り返り ぼそりと言った
「忠男(僕の本名)、人生はあっという間だぞ」
父はそれから間もなく
肺、肝臓に転移している直腸がんと解り
余命3か月と告げられた
実際には1年弱存命し81歳で旅立った
その間に
僕は「黄色い牙」を執筆し
父が存命中に直木賞を受賞した
父は鉄道員だったが
マタギの頭領である主人公に
父の生き方、性格を映し書き上げた
母は22歳のとき
伊豆から出てきて東京の代表的な下町である
本所(現在の墨田区本所)の技芸学校に入った
洋和裁と料理を教える学校
つまり 花嫁学校だった
学校と道を隔てて寮があった
昼休みは早めに寮に戻り
昼食の支度をした
5か月ほど経ってのある日
寮に戻り昼食の支度にかかった
木造の寮がどすどす揺れ
床がきしみながら隆起したり歪んだ
関東大震災の発生だった
母たちは着の身着のまま
火の海を逃げまどい
気がついたときは
離れ離れなっていた
母jは沿道の人の炊き出しを受け
寺社で夜露をしのぎながら
酒匂川を急場しのぎの渡し船で渡り
数日かけて婚約者(つまり 僕の父)のいる
小田原にたどり着いた
母はかすかな地震にも敏感で
家族のだれよりも早く外へ飛び出した
普段は何があっても動じなかったのに
94歳の初夏
体調を崩し病床についた
大分衰弱した頃
火の海を逃げまどったときの状況を話した
それまでけして話さなかったことである
50人前後いた寮生で生き残ったのは
数人だったらしい
「たあちゃん(僕の愛称)、生き残るのも辛いんだよ)
*人生はあっという間だぞ
*生き残るのも辛いんだよ
父と母のそれぞれの言葉は
へこたれそうになったり
遊興に流されているときの僕を
励まし戒めてくれる
それ以上に生きることの
貴さを教えてくれる