気丈な母だった。

 僕と年の離れた2人の姉にはとても厳しかった。 

 中学1年の夏休み、風通しのいい座敷でまどろんでいたら、

 母の茶飲み友達である近所のおばさんがやってきた。

 縁側での2人の話を聞くともなしに聞いていたら戦争の話になった。

 昭和27年(1952)の夏のことで、昭和20年8月15日に終戦を迎えた戦争のことは、

 まだ生々しい話題だった。

 「こんなのだけが生き残っちゃって」

 僕を振り返って(のことだったろう)母が言った。

 僕は深く傷ついた。

 僕には15歳年長の兄がいたが、昭和20年8月に中国東北部(旧満州)で戦死している。

 兄は、その前年の昭和19年秋に、大蔵省税務講習所(現在の税務大学校の前身)を卒業し

 て渋谷税務署に奉職した。

 繰り上げ卒業だったのだろう。

 翌20年の春、召集され旧満州へ渡った。

 

 僕は母の言葉に深く傷ついたが、それは束の間のことだった。

 母、そして、父にも、末っ子の僕は深く愛されていたし、それは姉たちに言わせれば溺愛と  

 言っていいものだった。

 僕は両親から愛されていることを充分に解っていた。

 それに兄のことが大好きだった。兄は両親、とくに母の自慢の種だった。

 自慢の種にされるだけのことはある、と子供心に悟っていたし、

 それで母の言葉は一瞬ズキッと僕を傷つけただけで後に残るものではなかったのである。

 

 兄は旧満州の荒野に散ったものの、当初は行方不明扱いだった。

 兄が所属した師団はソ満国境近くに駐屯していたが、終戦の1週間前に一方的に日ソ不可  

 侵条約を破って侵入してきたソ連軍にたちまちのうちに蹴散らされ散り散りになって退却し

 た。 

 その後、荒野を彷徨いながら小部隊に分かれて散発的に戦闘を続けたらしい。

 そして、終戦後もそれを知らず闘い続け、多くは全滅状態になったと伝えられる

 戦死したのはほぼ間違いなくても、その状況を確実に伝える情報がなかったので戦死公報

 が出されなかった。

 

 終戦の翌年の昭和21年4月、僕は小学校に入学した。

 学校から帰ると兄が使っていた三畳間に入るのが習慣となった。座り机の上に20歳の兄の

 写真が飾られ、その前にはいつも陰膳が供えられていた。

 一縷の望みながら、兄の生還を祈ってやまなかった母が供えたものだった。

 他に観音開きの扉がついた本箱があって、僕はその前に座ると少し厳粛な気持ちになって 

 扉を開けた。

 石川啄木、北原白秋、若山牧水などの詩集、歌集、句集などが並んでいた。ハイネ、ベル  

 レーヌなどの詩集もあった。

 僕はアトランダムに抜きとってページをめくった。と言っても、小学生の僕には理解に余る内 

 容である。兄のぬくもりを感じとるためだった。

 手製の栞や、押し花がはらりと落ちた。僕は掌に載せてしばらく眺め、鼻に近づけてその匂

 いを嗅いだ。

 詩集のページは余白が多く、そこに兄はペン書きで自作の短歌や、俳句を書き込んでいた。

 崩し文字だから平仮名さえ満足に解読できなかった。

 でも、それで充分だった。

 扉を開けることで僕は兄と会っていたのである。

 「兄ちゃん、じゃまた明日」

 扉を閉めるとき、僕は小声で呟いた。

 

 昭和27年の春まだ浅き頃、小6の僕は卒業を控えていた。

 その日、いつものように三畳間に入ると、座り机の前に母が正座していた。

 僕を見ると母はものも言わずさっと立ち上がり、僕と入れ違いに三畳間を出ていった、両目

 からはらはらと涙をこぼして。

 座布団には母の正座の型ができていた。

 

 その日、役場から兄の戦死公報が届いたのである。

 シベリアの抑留所から兄のいた部隊の生き残り3人が復員してきて、彼らが兄の戦死した状

 況を証言したことにより、その戦死が正式に認定されたのである。

 兄は終戦後の8月22日から23日にかけての夜半に戦車砲の直撃を受けたのだという。

 母は戦死公報を受けとり一縷の望みを絶たれ心の整理をしていたのだろう。

 

 僕が母の涙を見たのは後にも先にもそのときだけだった。