「何も存在しない」に勝る倫理など存在しない。


倫理の必要性が要請される世界が存在していることに優越する非倫理的状態など存在しないからだ。

 

然るに「今この瞬間」がある時点で「何も存在しない」は既に棄却されている。

 

そして「今この瞬間」その者たる私たち自身において「何も存在しない状態」を作り出すことはできない。

 

それ故に、倫理一切は既に敗北している。

 

 

 

宗教の本質は「畏れる」ことにあります。

 

何を畏れるかは人それぞれ、神や神の裁きを畏れる人もいれば仏教的な六道輪廻を畏れる人もいます。

 

しかしながら自分が何を畏れる人間になるかを自分で決めることはできません、その点において人は「不自由」であるということについては上にある過去記事の中で綴ったとおりです。

 

人が信仰する動機は畏れか、もしくは啓典に記載された救いへの期待なわけですが、具体的に人を信仰実践に突き動かさせるのはやはり畏れの感情の方でしょう。

 

神の裁きや不運な来世を畏れないのであれば各宗教における戒律や律法を守る必要もありませんからね。

 

さて各宗教には一つの宗教の中にも啓典の読み方の差異や宗教行事の執り行い方の違いなどの解釈違いによる宗派別れというものがあります。

 

カトリックとプロテスタント、スンニ派イスラムにおける法学派ごとのイスラム解釈の違いなどが有名です。

 

この宗派の別れが生み出す「解釈」を巡って人々は無数にある解釈の中から、一体どの解釈が正しいのだろう?かと思案を巡らせたり、あるいは自分とは異なる解釈を有する宗派との論争に明け暮れることになります。

 

しかるに宗教とはそもそも「畏れ」を以てして成り立つものであり、人は畏れによって神や信じている宗教の啓典に記された戒律に従うのであり、解釈によって従っているわけではありません。

 

より厳密に申しますとある宗教の信徒がその宗教における特定の宗派とその宗派の解釈に寄りかかっていたとして、なぜその宗派、その解釈に寄りかかるのかというとその信徒にとってはその宗派とその解釈にこそ畏れを見出すからです。

 

つまりその解釈でないと「救われない」かもしれないという不安あるいは恐怖心があるわけですが、そういった感情によってこそ各信徒の宗教的なスタンスが決まるということです。

 

逆に言えば人は恐れを抱くことのできない解釈には寄りかかることができません。

 

具体的な事例をあげるとしたら、やはりカトリックとプロテスタントの対立軸が典型例でしょうか、当時のカトリック教会の中に腐敗を見出した人々がそのカトリック教会から抜け出して今日でいうところプロテスタントという宗派の礎を担いました。

 

なぜこのようなことが起きたのかというと、やはりプロテスタントの人々にとってはカトリック教会の中にとどまっていては自分たちは「救われないかもしれない」という強烈な危機感があったからなのではないかと思います。

 

逆にカトリック側にしてみれば権威ある教会に逆らうことに勝る大罪はないと主張するかもしれません、ひるがえって彼らにとってはカトリックの権威性が否定されてこそ「救い」から遠ざかってしまうかもしれないと思うからこそ、古い教会の中に留まるわけです。

 

ここにもやはり「畏れ」があるわけですが、同じ神を信じていても「畏れの方向性」の違いによって人々の属する宗派や解釈は枝分かれしていきます。

 

ここにイスラムも加わればムスリムは自らが最終預言書と信じるクルアーンの優位性を主張してカトリック、プロテスタント問わずしてキリスト教諸派の教えを一律に棄却することでしょう。

 

それもひとえにムスリムはキリスト教徒たちの言葉よりもクルアーンの文言を「畏れる」からのことです。

 

無論、そのイスラム内部においてもスンニ派とシーア派の対立やあるいはスンニ派内部におけるどの法学派を支持するかという各々の解釈がありますから、それに伴ってムスリム間の信仰実践上の立ち振る舞いにも差異が生じてきます。

 

これももちろんムスリムごとにどの法学派が正しいと思うか、言い換えれば各々のムスリムにおいて最も妥当かつ正しいと思われる法学派の見解を支持したうえで、なおかつその見解に基づいた信仰実践を行わないと「救われない」と考えるからこそ起きることです。

 

このようにそもそもどの宗教を信じるかさえ制御不能な畏れによって導かれるものだとしたら、入信後に自分がその宗教内においてどの宗派どの解釈に従うかもやはり畏れによって決まるというわけですから、人はここでもやはり「不自由」であるといえるでしょう。

 

あえて言うなれば各宗教間において生じる宗教対立や一宗教内における宗派間の解釈違いというのは、各信徒における「私はこの宗教、この解釈を畏れる、一方であなた方の宗教、解釈は畏れない」という相互の意思表示とも捉えられます。

 

各論の論拠の究極系というのは「私(あるいは我々)はこの解釈を畏れる」という感情こそがよりどころなわけですから、こうした対立軸に終わりはありません。

 

そういう意味において、個々人がどの宗教のどの宗派に寄りかかろうとも各々が宗教解釈に没頭した挙句、論争を繰り広げるというのは不毛といえることでしょう。

 

なぜならもしこの仮に地上に「正しい宗教解釈」があったとして、その解釈の中に畏れを見出せない人々においてその正しい宗教解釈に則ることはないからです。

 

キリスト教徒たちがムスリムにならないのは彼らがクルアーンには畏れを見出さないから、その逆もしかり。

 

あるいは聖書にもクルアーンにも畏れを見出さない人たちは無神論者か、仏教徒にでもなることでしょう。

 

しかしながらそれらは断じて「彼ら自身が能動的に選んだ立場」ではありません、各々が何に畏れを見出すかというそれぞれの有する天賦の性質に基づいた必然的な性質の顕現なのです。

 

ヒント

 

旧約聖書イザヤ書29章

13 主は言われた。「この民は口先でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の戒めを覚え込んだからだ。
14 それゆえ、見よ、わたしは再び驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び、聡明な者の分別は隠される。」

 
クルアーン 星章
53-28.かれらは(何の)知識もなく、臆測に従うだけである。だが真理に対しては、臆測など何も役立つ訳はない。 
 
宗論
宗論はどちらが負けても釈迦の恥。 
 

https://ameblo.jp/kage-cel22/entry-12961168256.html

 

なお当ブログはこちらの決定論を軸にこのブログを読み、なおかつその内容を理解できることが定められている人々に向けて発信されております。

あなたが仮にサイコロだとすれば、あなたの思いやその思いに準じて行うあなたの行為はサイコロの面に刻まれた数字のようなものです。

 

無論サイコロ自身において、それを転がした際にどの面が出るかを事前に決めることはできません。

 

あなたが手を少し動かしただけで、その手の動きと同時に時間も経過しているわけですが、ここで人の意志及び行為を自由意志とみなし時空間それ自体とその時空間内に属する人とを切り離してしまうと人が自由意志を以てして時空間を操作できてしまうということになります。

 

あなたが手をわずかに動かしただけでも時間は経過し、なおかつ空間内における物理のあり様にさえ変化を加えているわけですから、それはもはや時空間の性質を操っているに等しいのです。

 

無論手を動かすというような、実際の物理的事象のみならずそれ以前におけるあなたの思いもそれと同様です。

 

あなたが手を動かそうという思いを抱く5秒前のあなたを想像してみてください。

 

当然そこにいるあなたは手を動かそうと思う5秒前のあなたなわけですから、手を動かそうという思いを有してはおりません。

 

あなたが手を動かそうという思いを抱くにはそこから5秒、時間が経過する必要があります。

 

そして実際に5秒が経過したその刹那、そこで初めてあなたは唐突に「手を動かそう」と思うのです。

 

逆に言えばその刹那に至るまで「手を動かそうと思うあなた」はどこにも居なかったということになりますね。

 

唯心論者やスピリチュアリズムにかぶれている人たち曰く「思いが現実を作る」だそうですが、このようにして人と時空間の関係性から精神の構造を紐解いてみると、その思い自体が時間経過に依存しているということが窺い知れるわけですから、思いを以てして現実を作るという考えは成立する余地がないということがわかります。

 

なぜなら実際には思いが現実を作っているのではなく、時空間の性質の中において、人の思いやその思いに伴う行為が瞬間瞬間に顕現しているというのが実態だからです。

 

万に一つ思いで現実を作れるような存在がいるとすれば、それは時空間の性質のあり様を自由自在に操れるような存在、すなわち「神様」くらいでしょう。

 

そして人の思いや行為が時空間の性質に依存している以上、人が神様になることはできません。

 

このようにして、唯心論やスピリチュアリズム的世界観というのはあらゆる宗教的、あるいは科学的視点を以てすれば成り立つ余地のない無明ということが明らかになります。

 

 

 

上の過去記事において私は 「意志は意志以前によって形成される」 と綴っておりますが、それを正当化しうる具体的ロジックは当記事のような論法によって成り立っております。

 

尤もこの「意志は意志以前によって形成される」という考え方を用いますと、犯罪や非道徳的行為における責任所在について、あやふやになりかねないという問題が生じるのですが、その点については以下の過去記事と過去記事内においてリンクされている相手方のブログにおける私と相手ブログ主さんとのやりとりを参照してみてください。

 

 

 

 

端的に申してみれば、サイコロたる我々の面には社会秩序を重んじようとする精神や悪を糾弾しようとする意志、あるいは自らが悪事を犯すことをよしとしない良心や犯してしまった悪事に対して生ずる罪悪感、そして自身を悪事から遠ざけようとする根拠づけとなる宗教的畏怖や法的処罰に対する恐れなども刻まれているがゆえに、そうした人の精神のあり様を踏まえれば決定論が自明となったところで、それが直ちに社会に無秩序をもたらすことは無いであろうというのが私の主張ということになります。

 

無論これら良心や罪悪感の有無、ないし宗教的畏怖や法的処罰への恐れをどの程度有しているかは個人差もありますので、その程度によって一定数犯罪行為や非道徳的振る舞いを是とする人々が現れるのはそれもまた自明でありますが、それらの必然的に生ずる一定数の悪に対しては現状の文明社会の秩序を以てして十分に対応できているといえるでしょう。

 

なおこの決定論において、個人の行為に対する責任の所在はその個人の属する国や社会、あるいはその個人の信仰する宗教の定めた規範に則るものであると考えます。

 

すなわち個人における責任所在のあり方は決定論において一律に定められることはなく、むしろ決定論において個人の責任の所在は各個人の暮らす社会の数に応じて、各々の社会が保有しているであろうその社会の基盤となっている宗教やイデオロギー、さらには慣習的な倫理観や法に基づいて相対的に規定されるものということになります。

 

ゆえに個人の道徳的振る舞いのあり様や倫理観は多様なれど、集団としての人のあり方となると、まずそれぞれの個人においてその内面に有する内在化された規範に則った非道徳的行為への忌避感情と倫理的行為の実践による法順守があり、次に集団における罪を犯した個人に対してその責任を追及しようとする性質とそこで認められた責任に応じて罪を犯した個人に対し一定の法規に基づいて懲罰を与えようとする性質があり、各社会は個人における法順守と集団におけるこの二つの性質を以てしてその社会形成の過程で必然的に秩序化され、一定の平均秩序を有した状態に収束していくことになります。

 

そう言い切れる根拠は実際に私達の目の前に顕現している社会それ自体が既にそうなっているという誰もが容易に確認できる事実から導き出せます。

 

この揺るぎない事実に勝る根拠などありませんね。

 

無論決定論に伴う全人類的無秩序化リスクというのは可能性レベルでは常に存在しているものの、これまで述べてきた人の精神構造を踏まえてみると、人は決定論を知ったからと言ってそう易々と無法に振舞えるようになるわけではありません。

 

アメリカの全米ライフル協会曰く 「銃を持った悪人を止められるのは、銃を持った善人しかいない」(The only thing that stops a bad guy with a gun is a good guy with a gun.)

 

だそうですが、たとえいかなる悪が生じようともそれを良しとしないような思いも生じるのであれば、その思いの生ずる限りにおいては悪は一定の範囲内に抑止され、秩序は保たれます。

 

むしろこれらの一定のプロセス自体が人の知覚しうる時空間の性質において必然的に「決定」されていると考えるのが私の決定論であります。

 

万に一つこの読みが外れて社会秩序が深刻な無法状態に陥るのだとすれば、それ含めてやはり決定論的な必然性によって成り立つ「終末」であるという旨も紹介した過去記事内において既に述べている通りであります。

 

いずれにせよ私達は「サイコロ」であって「サイコロを転がす側」ではありません。

サイコロにサイコロを転がすことはできないのです。

 

2026年3月29日 加筆修正。