世俗倫理においては世俗的国家が個人に対しその国の立法機関を通じて定めた人定法を順守させることによって一定の社会秩序と倫理規範を保たせることを是とする一方、個人が定められた人定法を逸脱しない範囲において、利己的に振舞いなおかつその利己的振る舞いによってその個人が私的欲求を満たし受益者となることを許容する。
対して宗教倫理においてはその宗教を成立させている啓典及びその啓典に記された啓示や戒律の具体的内容を根拠に律法を定めては信徒に対し律法を順守させることによって、一定の社会秩序と倫理規範を保つことを目的とするのは当然のこと、なおかつ信徒が律法に逸脱しない範囲において私的欲求を満たすために利己的に振舞い、その信徒が受益者になることさえも是とはせず、むしろ信徒において自らの受益者になりたいという欲求すら克服する境地が積極的に要求される。
具体的に宗教倫理においてこうした禁欲主義が正当化される根拠として用いられるのが、キリスト教においては
引用
マタイによる福音書 19:21 新共同訳
イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
引用終わり
イスラムにおいては
引用
クルアーン63章( 偽信者たち章 )10節
10節
死があなたがたを襲う前に、われが与えたものから施しなさい。かれは、「主よ、何故あなたは暫くの間の猶予を与えられないのですか。そうすればわたしは喜捨〔サダカ〕をして、善い行いの者になりますのに。」と言う。
引用終わり
といった利他行、喜捨を強く奨励する文言であることが多い。
無論仏教においても「布施」の精神の実施においてやはり同様のスタンスが重んじられる。
宗教はその形而上学的な性質において来世や審判といった個々人の死後のありさまを説き、その上で来世のありさまを良くすることが現世利益を追求することに対し優越するため、その過程で世俗的利益を重んじることは忌避されるようになる。
また各宗教の信徒において、その内面領域で各々の信ずる神、来世、地獄といった概念を畏れることがこれらの喜捨精神と利他行ひいては禁欲主義を実行する動機付けとなり、ひるがえって自身の物質的幸福を追い求めるような性質やその性質によって生ずる利己的欲求を満たしたいが為の能動的生き方自体が「畏れ」からくる恐怖心によって否定されるようになり、なおかつ各宗教の信徒がそうした恐怖心を土台とした萎縮的な生き方や人生を自分自身において課すのみならず、自分の家族や友人、ないしは自分の属するコミュニティ全般に同じような生き方と立ち振る舞いを求めるようになった時、ここに人定法に反しない程度の利己性やそれに伴う私的利益の追求自体は是とする世俗倫理とそれさえも悪、不正であると論じる宗教倫理の間で摩擦を生ずるようになる。
すなわち世俗倫理と宗教倫理は互いに「法」を軸として人々にその法を順守させることによって、一定の社会秩序と倫理規範を保たせることを是とする点においてその価値観を共有するものの、他方世俗倫理があくまでも個人における法に反しない程度での私的利益の追求を擁護するのに対し、宗教倫理はその点においても自らが有する形而上学的価値観を根拠にそれを擁護しないため、ここにきて世俗倫理と宗教倫理は価値観を共有することができなくなり対立することとなる。
ひいては今日国際社会において見受けられる世俗主義的人権思想とそれと相対するシャリーアに基づくイスラム主義による統治をめぐる論争、あるいは世俗国家の内部に起こるいわゆる宗教2世問題などはすべてこの世俗倫理と宗教倫理との対立に起因していると言えるが、世俗倫理においては科学的懐疑主義が重んじられ建前としては信教の自由が認められる一方、その本質において形而上学的領域の存在を自明とせず、人の幸福をあくまで物質的利益の追求とするのに対し、宗教倫理はむしろ形而上学的領域の存在を自明としたうえで人の幸福においても物質的幸福の追求よりも死後のありさまであるとした上で、なおかつ人が現世において安易に物質的利益を享受しうる受益者になるとそのことによって来世の利益が損なわれると考えるような傾向さえもあるため、世俗倫理と宗教倫理においては双方のこうした考え方の違いによって、その根本対立の解消は甚だ困難であると結論付けられる。

